親愛なる動物たちへ
ぼくの家にあそびに来るよう、キミたちみんなを招待します。
・・・・・でも、だれも来なくてもだいじょうぶです。
他の動物たちとうまくつきあえない孤独なハリネズミが、誰かを招待しようと思って書いた手紙。この手紙を読んだ時、「ああ、僕もまったく同じだ」と思っった。
出典:ハリネズミの願い
招待の手紙を書いたのに、いままでだれも訪ねてくる友達がいなかったハリネズミは、もしも○○が訪ねて来たら?と想像して不安に襲われてしまう。
クマがきたら? ヒキガエルがきたら?
ゾウがきたら? フクロウがきたら?
ありとあらゆる動物が訪問する想像は突拍子もなく、それでいていかにもありそうでもあり、思わず笑ってしまうが、ふと身につまされ・・・
「孤独」「自分自身」「存在」「単純さと複雑さ」「空間と無」という言葉が登場し、意外に哲学的だったりする本書。
ハリネズミが想像する、誰かが訪問することで起こるであろう「アクシデント」の底には、コミュニケーションについて誰もが持つ不安が横たわっている。
それは「自分を理解してもらえないのではないか」「相手から一方的な要求や期待をされるのではないか」「お互いの話題がかみ合わないのではないか」「相手を傷つけてしまうのではないか」という不安から来ている。
人との距離感がわからず、傷ついてしまう自分。
そんな自分を見せないように、もっと別の自分になりたくて、らしくないことをして疲れてしまう。嫌われることを怖がって相手を気にして、自分がわからなくなってしまう。そんなハリという個性を持ったハリネズミは、僕とよく似ていたのだ。
素の自分をさらけ出して生きていけるなら・・
自分のコンプレックスを支えとして、むしろ頼みの綱として生きることができたなら、なんて素敵なことだろうか。
やっとわかった生きづらさの原因
あなたは、こんな経験をしたことがないだろうか?
・頑張っているのに、なぜか空回りして周りからの評価はイマイチ
・集団行動(職場)で浮いてしまう
・自分の思いを伝えることが苦手で、誤解されがち
・自分ではちゃんとしているつもりなのに、周りから空気が読めない奴だと扱われる
・自分なりの「こだわり」があり、融通がきかない
・ルーティンから外れた急な変更に、強いストレスを感じる
これらのことは、もしかすると脳の機能的な偏りからきているかもしれない。
僕自身、幼い頃から周りと違うことに疑問を感じながら生きてきた。
・ひとり遊びが好きであったこと
・対人関係を維持するのが大変に感じること
・大声や大勢の人がいる騒がしい場所が苦手だったこと
・言葉の裏の意図や皮肉をとっさに理解できないこと
・自分の言いたいことだけ一方的にいってしまうこと
・必要以上に被害者意識を持ってしまうこと
つまり、これらの生きづらさすべてが自閉症スペクトラムの特徴に当てはまる。
出典:自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の本
「だからうまくいかなかったのか。自分がダメだったり、価値のない人間だったりしたわけではなく、人と合わせるのが難しい脳の特性だったのか」と腑に落ちた。
自分が間違っていたのではなく、自分と社会との関わりに不具合があっただけ。
とはいえ大人になるまでわからなかった。僕は病院で診断を受けたわけでもない。ただ、社会に居場所を見つけられず、自分の道を歩いていくしかないと腹を括った人間なだけなのだ。自分のこれまでを振り返っていく中で、自閉症スペクトラムの傾向があることに気づけたのは幸いだったのかもしれない。
思い返せば、
1対1のコミュニケーションはうまくいっても、対大勢の会話となると自分がどのような役割で動いていいのかがわからなくなる。
ところで、僕はみんなやっているから「当たり前」と思える人が羨ましくて仕方なかった。
それはスーツを着て会社に行くということに、疑問を持たない人に向けられる。僕は「当たり前」のレールから外れてしまったが、どうしても納得できなかったことがある。
それは会社というものは、株主の下にたくさんの労働者が商品として陳列されているということ。
株主を、彼らを豊かにするために僕は生かされているのかと思うと、その現実をどうしても受け入れられなかったのだ。なんて心が狭い奴なんだと思われるかもしれないが、それでも生きていくために、明るく協調性を持って素直に働く人材でいないといけない。
おそらく、サラリーマンの多くはそのあたりを割り切って働いているか、そこまで深く考えずに働いているのかのどちらかだろう。
日々をやっとのことで乗り越えている人も多いのでは?と僕は感じている。
どう頑張っても人並みにできないこともある。
極端な話、僕はこだわりが強すぎる。しかし、自分が関心を向けられることを貫いて生活していけるケースなどほとんどない。たいていの人は我慢している。当然のことだ。職場で崩れ落ちてしまいそうな自分をなんとか取り繕うのに必死なはずだ。僕自身、その反動で動悸、耳鳴り、頭痛に悩まされ出勤途中に涙が止まらなくなったことがある。それでも、会社にいく以外には選択肢がなかったのだ。
僕の発信に興味を持ってくれたあなたは、”普通”といわれる人たちとは見てる世界もずいぶん違うのかもしれない。
だからこそ、
さんざん無理してきたのではないだろうか?
自分の居場所を見つけるために、ずいぶん苦労してきたのではないか?
十分傷ついて、十分苦しんだあなたをまずはあなたが受け入れてあげる。
しっかり休んで、頑張ったねって、自分に声をかけてあげてみてほしい。
ka-kunの情報発信の理念
最初に触れておきたいのが、 僕が豆腐メンタルについて情報発信をするにあたっての理念です。
ぼくには「各々が自分の思うように生きたらいい」という理念があります。
そして、その目標を叶えるのに一番適していたのが 「メンタルを整えること」だったのです。
僕自身、感受性が世間一般の人と異なることが軋轢を生み出し自己肯定感が下がる原因でしたし、 毎日が楽しくなくなる原因でした。
そして、今、世の中に蔓延っている息苦しさ、頑張ったところでどうにもならないだろ、という無力感は全て 「窮屈な常識に縛られてしまうこと」が原因だと思うのです。
努力しても変わらないから、 頑張るだけもったいないし努力なんかしないでなんとなく生きようという空気をひしひしと感じるのです。
でも、僕は何とかならないことはないと確信しています。
もちろん、その努力が正しい方向を向いているという前提のもとですが。。。
とにかく「素の自分でいられる」 第一歩として、 自らの信念をブレないように保てるようになる 「メンタルを整えるスキル」 を伝えることがすごく大事だと思ったのです。
また、他人に惑わされない自分になるには 「他人の評価を気にする無意味さ」を理解し、いかなる時も「自分の意思を貫く意識」を実践することが必要不可欠なのです。
なぜなら、 「どうして人は他人を気にして生きてしまうのか」 そのカラクリを理解していないと、 時代や自分の置かれている状況が変わったら、 自分を見失ってしまうことになるし、自分が信じていることを実践し、 そして継続することで自分を望む姿に変えていくというのは、 意識しないとできないからです。
本物の知識と、 しっかりと実践、継続する意識 この両輪がそろって初めて 「ありのままの自分でいられるためのスキル」 を手に入れることができ、 そして、いつでも理想の自分でいられることができるようになるのです。
僕が、このような理念を持った経緯は 本編やメールマガジンにて詳しく話しているので、ぼくの想いがあなたに届けば幸いです。
では、本編に入る前に、 豆腐メンタルの人が快適に生きていくために
必要なことを再度挙げておきます。
ここに書いていることだけでもメモに取って 忘れないでいてもらえれば必ずあなたの役に立ち続けることをお約束します
・必ず、「なぜ人は他人の評価を気にするのか」理解すること
・正しい知識を手に入れ、世の中の「嘘」の常識に惑わされなくなること
・自分の内面に対する理解を深め、自分のメンタルをコントロールできるようになること
・これらのスキルを身につけ、一生にわたって自己管理に困らなくなること
この条件を満たすことによって、 他人に振り回されない、素の自分でいられることができます。
あとから全部触れていくので、 今の時点では こういうのが必要なんだなーくらいの認識をしてもらった上で読み進めていってもらえたらと思います。
昔の僕は、この条件を無視した日々を送っていたので 、自分がわからなくなって適応障害になる、、、 という、苦しい経験をしてきました。
ぼくと同じ轍を踏む人を無くすために、 どんな経験を経て今に至るのかぼくの経験した全てをここに書き記していきます。
ka-kunが情報発信するに至った経緯
なぜこうも人生は理不尽なのか?
なぜ、自分はこの世に自分の意志ではなく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねばならず、そしてじきに死んでしまわねばならないのか?、しかもほとんどは何もわからないままに。
未だにその答えなんてわからないが、 とにかく自分が生きている世界というのは大勢が信じる「常識」で回っていることだけは理解していた。
違和感を覚えた中学の頃には、「普通を演じきれない人間」に対する風当たりの強さを痛感するようになった。その後も、なんとか普通を演じようと頑張り続け、無事に高校・予備校・大学・就職を経て、その間にわかったことがある。
まず、
「この」身体は「私の」身体ではないということ。
自分で選んだのではない、遺伝子を身体に刻印され、自分で選んだのではない男女を両親とし、自分で選んだのではない特定の環境のもとで育てられる。さらに、運というものが濁流に浮かぶこの葉のように我々を翻弄し、しまいにはなんの脈略もなくある日突然死んでしまうのである。
生きる気も失せるほど理不尽ではないか。
そうと知りながら、大勢の人間はある人を尊敬し賞賛し非難する。
さらに骨が砕けるほど過酷なのは、あらゆる成功があたかも当人の努力のゆえであるかのような、あらゆる失敗が当人の努力の欠如であるかのような言説が蔓延っている。それを知りながら、生まれながらにして才能のある人を尊敬し、無能な人を軽蔑し、美人を崇拝し、ブスを嘲笑する。ああ、なんと理不尽なことだろう。でも、生きていくとしたら、この空気を吸って生きねばならないのだ。
また、どんな物事にも終わりがあることを忘れてはならない。
たとえ、どんな社会が実現されようと、どんな教育が施されようとも、各人がどんな積極的な生きる目的を持とうが、いずれは死んでしまい、いずれ宇宙から人類の成果はことごとく消滅してしまう。
このことをごまかさずに直視すれば、人生は虚しい。
最終的に宇宙の終わりまで考えると、一切合切が「無」になる。
どう足掻いても解決されない問題なのだ。
それが身体中に浸透して暴れ回り、ほとんど息の根を止めてしまう。
一方で、世間というステージでは「お前は〜すべき」「〜すべきではない」という野次が止まない。
そんな中でも「私たちは幸せです」なんてのんきにコールする彼らは、自分の信念がそのまま大多数の信念に支えられていることを前提に生きている。大多数の人が自分と同じ信念、すなわち感じ方をしていると勘違いしているのだ。そもそも世間においては「いいこと」がほぼ決まっていて、大多数の人はそれにほとんど疑問を持たない。迷惑なことに普遍的で絶対だからとそうは思わない人間にまで要求してくるのだ。
それだけじゃない、
世間は成功した人には寛大で、何も結果を出してない人には思い切り辛く当たる。
なんとも世間はいやらしいではないか。
また、人付き合いにしても思うことがある。
・どんなに誠心誠意努力しても相手は僕を「嫌う」のだ
・どんなに相手が僕を好きでも僕は相手が「嫌い」である
嘘偽りのない現実なのだ。
興味がない相手に関する絶対的無関心を貫くうちに
一方的に付き合いを持とうとしてくる人から嫌われる。
こちらに一切の悪気がなくてもだ。
ひとを好きになると同様に、
ひとを嫌いになることの自然性にしっかり目を向けよう。
・職場の歓送迎会
・身内以外の冠婚葬祭
・義理で参加してるコミュニティ
きっとこれらは 「一般的な人間にとって」 耐えうる濃度なのだ。 しかし、僕の様な極度の人間嫌いにとって 「人付き合いの濃度」が濃すぎる。
だから、学生として学校に通う、会社員として会社で働くということは、一般の人にとっては何ともなくても、ぼくだけが息苦しい、という状態だった。
そんな状態だから 、どれだけ待遇のいい会社で働けたとしても、 みんなが楽しそうにしてても僕は心底穏やかではないのだ。
これは結構心に来るものがあって、「社会人として失格」 と思うだけじゃなく、 僕自身が「人間として欠陥品じゃないか」 とまで考えてしまっていたのだ。
もちろん、演技力のない自分が悪いし、 ポジショニング戦略を見誤ったのは痛恨のミスだ。
この何ともいい表しようのない苦悩を周りの人に理解してもらおうだなんて甘えをいいたいわけではない。
それは当然だってわかっているけど、「他人から無条件に不利な状況に追いやられる」 という事態に、 僕の心はいつまで耐えられるのだろう、 いつかおかしくなってしまうんじゃないか、と感じるほどに辛かった。
他人から不利益を被ったのは、 会社員時代だけではない。 学生時代だってそうだ。 というのも、 例のごとく僕だけがズレた感覚を持ってしまう。その頃の僕も周りに合わせるしか生きのびる術がなかったのだ。他人に褒められるような才能に恵まれなかった人は共感できるのではないだろうか?
ある程度なら、仲がいいと思い込んでいる人たちと「お友達ごっこ」をしているうちは身の安全が約束されるだろう。僕自身、田舎で育ったこともあり、村八分を恐れて運動音痴にもかかわらず毎日やりたくもない部活動に励んだものだ。しかし、学校というのは部活であれば身体能力の高い人間、勉強であれば学習能力の高い人間。どうしても親が医者、教師、経営者、スポーツ経験者・・そういった「優秀」とされる類の血を受け継いだ人間が優位なりがちな世界なのだ。
また、学校の勉強が「楽しい」と思えるかも運だし、そうでなくても「努力できる」のはれっきとした能力だ。
自己を鍛錬するのには精神力が必要だ。痛みへの耐性は個人差がある。それをあたかも当然のように誰でもできる、できないのは怠惰なだけだと揶揄する風潮はどうかと思う。誰もが年間360日以上、小学生の頃から野球に人生を捧げるくらい何か一つのことにストイックになれたなら苦労しないし、そりゃ何かしらの形でその「持ち前」の継続力で成功するだろう。みんなが崇拝してやまないイチロー選手のことだ。
また、新入社員といえば、「可愛がられる」 イメージがあるが、僕の場合はキラキラしたものとは 全く縁のないものであった。
そもそも、自分が明らかに異質な存在と自覚していたから、 自分に自信が持てない。はじめての職場は高卒で叩き上げの先輩が大勢いるところだった。そこにポイっと待遇だけは一丁前の何もできない大卒が入ったものだから憎たらしいこと、この上なかっただろう。実力も経験も断然上なのに自分より給料のいい人間を育てる。それも将来自分の出世の邪魔になる存在を。
一方で僕は情けないことに嫌われる勇気がなかったから、 周りから「無視」されても気にしないでいることしかできない。
むしろなんで今さら「媚を売ってわざわざ仕事とりにいかないといけないんだよ」 と頭の中は邪魔なプライドでいっぱいだったのだ。実際、大きな会社ほど誰ひとり例外なく替えが効く存在だ。誰でもできる仕事を組み合わせるから、大きなことができる。当然、仕事にやりがいなんてものはない。その対価として安定した給料をもらうことができる。わかっているんだけど、どうしても目の前の仕事に本気になれない。このあたりに焦点を向けてしまっていた僕はこの上なく使いにくい人間だったろう。
この時に気がついたのだけど、 いちいち他人と異なる自分のことを卑下してしまう、ということは 単に健康面に悪影響を与えるだけではない。
必要以上に他人の評価を気にすることによって、 すっかり自己肯定感が下げてしまうことは 「毎日のすべての振る舞いに」 悪い影響が出るのだ。 この頃ほど、無力感そして絶望を味わうことはなかった。
当時はベストな状態で就職できたと思い込んでいたが、 皮肉なことに「大卒」という肩書で結果として少数派に転じてしまう。メンタルが雑魚すぎた僕の会社員生活は底の見えない泥沼のような 真っ黒な、汚い時間に塗りつぶされてしまった。 今思うと、どうしてもっと早くに自分を持てないと人生の全てで損をするということに気がつかなかったのだろう。
他人の評価を気にすることもなくなった今でもこの苦しみは忘れられない。
僕が、自分の責任で台無しにした新入社員という最強カードはもうどうやっても取り戻せないのだ。 人生は限りなく短いのに、 失った時間は戻ってこない。 こういう思い出が頭をよぎると、 やるべきことは一日も早くやっておこう、 一日一日を無駄にしないでおこう、 と感じる。
脱線してしまったので、 本題に戻るが、 そんな風に、 ほんのりと働き方だけはなんとかしたい、 とは思いつつもまぁ後でいいか、なんて具合にずるずる毎日を過ごしていたのが、不幸の入り口だったのだ 。
ちなみにそれまでの人生もうまくいっていなかったのかと振り返ると、そうではなくて大学 4 年間は徹底して人を避けていた。だから、自分のエネルギーを無駄なく夢中になって一点集中させることでうまくいっていたのだ。
たとえば、それは卒業に必要な単位を大学に出来るだけ通わず要領よく集めることであったり、生活費の足しにバイトをするも出来るだけドライな人間関係の個人経営の居酒屋や早朝のコンビニ、ビアホールのスタッフ、不動産会社の単発営業であったりする。就活なんかも「ゲーム」としては楽しめた。
よくわかっていたのだ。
同じ固定メンバーで働き続けると嫌でもお互いの嫌なところが目に入ってしまい、それを卑怯なことに僕は、面と向かって言えず、突然関係を解消したくなる。恋人関係にしても何度失敗したことか。それでも僕は、その度立ち上がってきた。
それでも「世間の人たちと交わらなくては!」って。
でも、はいずり出ることを決心した瞬間に萎える。だってせいぜい50年待てば、僕は死んでしまうのだから。その間、じっとモグラのように薄暗がりの中に蹲っていても、アリのようにあくせく働いたとしても、結局は誰も「死なない」という報酬を得ることはできない。せいぜい生きてもあとたった50年。その間何をしてもどうせ死んでしまうだ。とすると、いまふっと死んでしまっても、さして変わる事が無い。
だから、「やる気が出ないのも仕方ないよね。」
と自分に言い訳しながら、ずーっとこの問題を先延ばしにし続けた、 そのツケがついに回ってきたのだった。
つねに崩れそうな自分をセルフ叱咤激励して、必死に生きてきた
とにかく嫌で嫌で仕方ないチームワーク。人事異動でデスクワークから離れ現場配属になってからというもの、一年以上も頭痛・肩凝り・吐き気に悩まされてきた。その日も何とか作業着に着替えて現場に着くまでのことはできたのですが、 機械が警報を出して緊急停止した瞬間に 「何やってるんですか!ちゃんと見てます?何のためにいるんですか?これじゃあ僕だけで仕事した方がマシです。もう現場に入ってこないでください!!」 みたいに年下の先輩からもう言葉の限り罵倒されたんですよね。 この時はほんとに 死ぬほど頭にきたし、 死ぬほど悔しかった。 なんでそこまで言われないといけないのか、 僕がどんな気持ちなのかわからないのか、とかそんなことも思ってしまった。 でも、今思うと、 この時の先輩は何も悪くない。 同じ現場にいながら心ここにあらずな言動、 終始話しかけないことから生じる気味の悪さ、 常にやる気なく見える態度などが、 同僚にはすごく不快に映っていたのだろう。
無意識に、
「この男は自分と対等に働くステージにいない」と判断されていたのだろう。
というのは、今になってみればわかる。 でも、その時の未熟な僕には、 そういったこともわからなかったのだ。 そしてそのあと、 どうやって家に帰ったのか、 どんな会話をしてのかなんかももう覚えていない。 たぶん、本当に覚えていられないほどにつらい記憶だから、 都合のいい僕の脳みそは、 そういったことを忘れてくれたのだと思う。 そして、明くる朝ベッドから起き上がることはなく数日後には病院で適応障害と診断された。
とにかく、そんなことがあって、
「これ以上、理解しあえない人たちに合わせると(精神的に)おかしくなってしまう」
という、強い危機感が僕の中に生まれ、 どうしようもなくなって、 最終的に逃げるように会社を辞めたのだ。
正直なところ、食うだけなら適当にバイトしていれば十分だ。
せっかく大学まで出して、大手に就職させたのに・・と親は悲しんだが、極端な話、自らの死、宇宙の終焉という絶対的不幸に比べると、いかなる世間的不幸も比較を絶して軽い。
本当の意味で自分を救うためならば、人は自分で判断して行動して、その結果に対して自己責任を負うしかないのだ。
経済的に自立するためのスキルがなかった僕にとって、世間で生きていくのはすごく難しいものだった
どうしても他人に興味を持てず、コミュニケーションが苦手で、それでいて一つのことに「こだわってしまう」だから、誰かと協調して働くということを徹底的に排除しできる、ひとりで働ける職業を調べた時に飛び込んできたのが、
・新聞配達
・カメラマン
・ライター
・翻訳家
・校正者
・研究者
といったところだろうか。
ところで僕には夢があった。
それは、経済的にも人間関係にも時間的にも成功するということ。
もっと掘り下げると、「誰にも会わずに稼ぐ、嫌いな人とは一切関わらない、好きな時に仕事して好きな時に好きなだけ休む」というふざけた話だ。だけど、上にあげた職業でそれらの条件を達成できるにはやはり専門職になるし、そもそも一流になるのに何年かかるのだろうか・・
だか、唯一その中で可能性を感じられる要素が含まれていて、それは文章を書くという点。これは一様に評価が決まらない世界で、何かを自分の世界観で表現して、社会的に評価され、「評価」という1点で社会とつながっている道。
「この道で起業するしかないな・・」
とにかく、僕が病まずに生きていくため自前で収入源を確保するためにはスキルが必要だが、 基本的に誰も助けてくれない。
それは険しい道のりを歩いていくことになるということ。
だからメンタルを管理できるようにならないといけないと直感的に勘づいた僕は、 まず情報を集めるために奔走した。メンタルに関係しそうな書籍を読み漁り、 自己管理の方法を学ぶコンサルティングにもお金を投じた。 もちろん、ネット上の情報もたくさん収集した。 そして、(今はもう活動してないのですが、) たまたま見つけた、まともそうな情報を出しているブログを隅から隅まで読んだ。
その人はどうやら、 僕と同じように会社員の生活で消耗していた状態から、思い切って脱サラ起業して、 別人レベルに人生を変えてきたようだった。
異次元の生き方。
誰にも縛られない暮らし。
その内容は、身につけた専門知識を武器に自らマーケットを調査し、求められる商品を独自開発し、ウェブ上で提供する。すべて自分一人で。まさに自給自足的な稼ぎ方である。誰にも干渉される余地がない。
その人が発信するメディアのブログ記事やSNSからは、個人で生きていくための熱い信条がヒシヒシと伝わっていきた。彼は一切自分を安売りせず、自分が販売する商品には価値があると自信を持って、それに見合った対価を受け取っていた。もちろんお客さんからの評価も高い。
僕にとって魅力的すぎる世界に見えた。
何より、僕と同じように組織人としての暮らしに不自由を感じていた人が、 経済的にも人的にも時間的にも理想の生活を送っているということに衝撃を受けた。 とうのも僕は独立について情報を集めるほど、 やっぱり成功するのってすごく厳しいんじゃないかと思っていたのだ。 それを当然の如く成功していた。 単純に嫉妬した。 悔しかった。 いま自分の生活が、置かれているどうしようもない環境が、 画面の向こうにいる青年と比べると惨めすぎたからだ。
自分が取り組むべきは、自分の信念を成功を当然に思える整ったメンタルにアップデートすることだという確信があった。
しかも、こんな風になれれば、いつだって人との関わり方に悩まない快適な環境を作り出せるし、 仕事を通じて頼りにしてくる人から尊敬されるようになるらしい。 そして何より メンタルを整えるということは「一生物のスキル」 というのが魅力的だった。 もう自分の性格のことで頭を抱えることもないし、 どんな状況に置かれても自分の運命をコントロールできるのだ。
とにかく、 徹底的に知識を付けて実践していった。 もちろん、未経験だったからで戸惑うこともあった。でも、 これくらいのは承知の上でコツを掴んでからは早いものだった。 そこで学んだ方法を継続して、 いつの間にか自信に溢れる自分になれた。 以来、徹底して自己管理するスキルが身につけていたのでブレることはなかった。
あの、周りの人たちと「感受性が異なる」要は感覚が”ズレている”ということから、理解してもらず苦しむことしかなかった希望のない世界から解放されたのだ。
毎日先の見えない恐怖におびえて、生きる心地がしないなんてこともなくなった。
僕は 生涯付き合っていくであろう 「心のあり方」 という問題を解決することに成功したのだ。 どうやってメンタルを整えたのか、 なぜメンタルを整えることが人生に影響を及ぼすのか、 どうやって安定したメンタルを維持したのか 徹底的に理論から説明できるから再現性もばっちりで 今後一生どんな状態に自分が置かれても自分と向き合っていけるという自信ができたのだ。
むしろこれまで欠点として嫌いであった強い「こだわり」を持ってしまうことが、かけがえのない武器に変わったのだ。
そして今は、僕の劇的な変わりっぷりに勇気をもらったという人も嬉しいことにたくさんいる。 そして、周りの人の僕を見る視線も、 明らかに一定以上の尊敬を持ったものに変わった。
ぼくを取り巻くすべてが劇的に変わった。 僕は相変わらずわがままだ。相変わらず神経をすり減らすだけの集団生活なんて二度としたくないと思っている。ただ自由気ままに暮らしたいのだ。
だから、人生の基礎となるメンタルをしっかり整えてた上にビジネスについてちゃんと学んだから、何もかも主体的に好きなように変えていけるし、理想の自分を手に入れられたのだと思う。
そして、なぜこんな記事を書いているのか?
とよく聞かれるのだが、この記事は自分のために書いている。徹底的に自分を変えてから、 どんな方法でしたのか?そして、 どうやって自分を変えたのか?それを聞いてくれる人が多くなった。
顔には出さないけど、 そう言うことを言われるとすごく嬉しい。 自分のこれまでの苦労が報われた気がするからだ。 だから、最低限の必要な知識はひとつの記事にまとめようと思った。
自分を変えていくことに関して 聞かれたときにはこの記事を読んでもらえれば 大抵のことは理解してもらえるように書いている。
あなたの貴重な時間を使って、この記事を読んでくれていることをうれしく思う。
ぜひ人付き合いが向いてない人の処世術について、役立つ知識を手に入れて欲しい。 無理をしない働き方について難しく考えなくても、 きちんと学ぶことを学んで、 実践していれば結果はでる。 あれだけエネルギー少なめな僕でもできたのだ。
ひとりで働く方法は確かな理論に基づいていて、再現性があり、 正しい努力をすれば誰でも成功するものである。 正しい方法で、適切な努力を積み上げれば誰でも、どんな状況でも経済的・人的・時間的な成功は訪れると僕が保証する。
生きづらさにあえいでいる人は、それぞれの仕方で包み隠さず「生きづらい」と語れる場を確保すること、その大切な場でごまかさずに徹底的に生きづらさと闘う生き方をおすすめする。天職になりさえする。
そうして、この記事を読んでくれた人にとって素の自分で生きていくための選択肢が増えたなら、僕が記事を書いた意味もあると思える。
はじめから人間は平等ではないのだ
きっとみんなわかっているんだけど、それでも平等な社会を思い描いたりする。しかし、僕は彼らとしては善かれで押し付けてくる「常識」に不快感がぬぐいきれないのだ。
だって、皆「同じ」じゃないんだから。
やっぱり教育のせいなんだろうか。
平等に扱って、同じ速度で教育を一方的に施して、同じテストで同じ物差しで評価する。
だから会社でも、同じ評価制度で評価するし、同じ就業時間で働かせるし、同じだけインプットしたら、同じだけアウトプットできないと評価にすらならない。
「絶対なんて絶対にない」なんていう名言もあるけれど、
「平等なんてありえない」っていうのもまたひとつの真理だ。
だって、全ての人間は「同一」ではないのだから。
体や脳や、DNAの構造からしてそもそも違うし、好みも得手不得手もそれぞれ違うし、それらを均質化することはまず不可能なわけで、する必要もない。
それでも異なっている以上、必ずなんらかの物差しで優劣がつくのだ。
人間というのは非常にめんどうで、こんなややこしい性質を持っている。
・自分と異質なものを排除しようとする
・比較することでしか何かを評価できない
すべての人が異なっている以上、用意した物差しによって優劣がつき、比較することでしか評価できなのだ。
人間は評価によって自らの感情を動かし「幸せ」を感じる生き物でもあるからこそ、比較しなければ劣等感を感じなくても済むかもしれないのに、必要以上に比べて不幸になってしまう。
だからこそ自分と異なるものを賞賛する必要もないし、否定する必要もない。無理に受け入れなくてもいいし、自分に危害が及ばない限りは排除しようとしてもいけない。
ただその存在だけを認めて、「それはそれでいい」のだ。
教育などと称して、他人を変えようなどと考えるのは傲慢だろう。
周りと同じようになれない・・
たとえば、
口下手で趣味嗜好が変わっている人=「劣っている」
と虐げられやすいのだ。
この国では、多数派からはみ出している人を差別・排除する力が相当に強い。
特に「こだわり」が強い奴なんて、理解者に囲まれているうちは他人がなんと言おうと信念を曲げない一貫性のある信頼できる人だなんてプラス評価でも、そこから一歩でも出てしまうと空気が読めないただの融通がきかないポンコツだなんて邪険に扱われる・・なんてことになりかねない。
臨機応変な対応が苦手で、こだわりを持ちやすいと差別や排除の対象となるリスクが高い。
よくよく考えてみてほしい。
その他大勢と感受性が異なるだけで少数派の人種として、人種差別を受けているのと同様な状態に晒されているのである。
たとえば、特定の人種がたくさん住む国で、多数派の人種の価値観に基づいた制度や文化が浸透するほど、それ以外に対して排他的な風潮が生じた途端に少数派は社会的に抑圧される。これが人種差別なのだ。
その人種特有の文化を維持することは、その人種の人たちにとっては無理のない生活を維持するために不可欠になってくる。
だからそれを制限されると、
当然、心理的ストレスに晒されてしまう。
同様に現代における少数派にならざるを得なかった人たちは、つねに心理的ストレスに晒されやすい状況に置かれている。そのような状況に置かれ続けた人たちが、精神疾患を患うことになるのかもしれない。
しかし、そのようなストレスを工夫次第で免れたり、過去にストレスに晒されたけどうまく切り抜けられた人たちは、充実した社会生活を送ることができているのも事実なのだ。
米津玄師も少数派として生きてきた人間だ
出典:https://news.livedoor.com/article/detail/17533186/
2012年にシンガーソングライターとしてデビューした彼は、ライブツアーやCM楽曲の提供、ドラマの主題歌など幅広く音楽活動をされている国民的ミュージシャンだ。
しかし、順風満帆な人生だったわけではなく、人とのコミュニケーションが苦手で、いじめを経験する。高校時代はバンド仲間に理解されず、専門学校に通いバンドを続けるも、やはり上手くいかなかった。
人とは違うことに違和感を感じていた彼は病院を訪れ、原因を突き止めることができた。
高機能自閉症であるということに。
””
小学校高学年ぐらいの時にはもう、居心地の悪さみたいなものを感じていて。その中で編み出したのは、自分の頭の中で架空の人物と話すっていう。(略)…俺はずっと、普通の人になりたかったんですよ
”
ROCKIN’ON JAPAN 2015年11月号
同級生が何を言ってるのか、何を意図してるかが全くわからくてコミュニケーションの取り方がつかめず、学校は恐怖でしかなかったとのこと。
””
そもそも共同作業っていうか、バンドって複数人で何かを作る存在じゃないですか。そうなった時に……人と一緒にいるっていうことに対して、そんなに楽しいと思えないっていうか。やっぱ人と足並み揃えて、みたいなことが、すごくヘタクソだったんだろうなと思いますね。
”
uP!!! 米津玄師がライブ・アーティストになるまで。前後編でじっくりふり返る【インタビュー・前編】
あなたも集団行動のわずらわしさに悩むタイプではなかっただろうか?
そんな自分の居場所を見いだせず、苦しんだ彼を救ったのは・・
””
ボーカロイドという素晴らしい砂場を見つけて、誰の視線も気にせず遊んでた。そしたらある日突然、自分はもともと人とコミュニケーションとれない、そういう事実が自分の身に降りかかる感じがあって。
(略)
自分が普通になって、幸せに暮らすためには、普遍的な音で、普遍的な言葉で、何かを表現するしか残ってなかった
””
ROCKIN’ON JAPAN 2015年11月号 抜粋
””
「SMAPなどへの楽曲提供で知られる音楽プロデューサーのヒャダインさんもニコニコ動画の出身です。動画投稿サイトの普及で、才能さえあれば年齢や住んでいる場所など関係なくチャンスがつかめる時代になった。
20年前なら、米津さんのような地方出身でコミュニケーションが上手でないタイプは世に出ることはなかったと思います。デジタル時代だからこそ誕生した“時代の寵児(ちょうじ)”ですね」
””
(レコード会社関係者)
””
今のこの社会って右利きが暮らしやすいようにデザインされているじゃないですか?俺も右利きなんですけど、左利きの人の話を聞くと・・些細なね。ハサミがうまく持てないだとか、そういうところでほんの少しずつ見放されてきたんですよね。やっぱり自分の昔のこととかを思い返してみると、はぐれ者であるというか、ごく当たり前にやらなければならないことができないだとか、そういう気分を感じながら生きてきた時間が長かったので、過去の自分を含めてそういう人たちに対するまなざしがどんどん強くなっていくような気持ちもたくさんあるんですよね。
””
ニュースZEROインタビュー あぶれた人たちへの思い”
日々を生きていく中で、自分にいま足りないものはなんなのか、何が足りなくて何を補充すればいいのかということを考えながら生まれてから生きてきたような気がしていて (略)
自分が思っていることと全く真逆のことを考えている人間が対岸にいたときに、その対岸にいる人の主義主張みたいなものを一回引き受けてみる。ひたすら中間というか真ん中には何があるのかを探しあてる。自分にとって音楽を作る上でも日々生きていく上でも。一番大事なことかなと思います。
””
ニュースZEROインタビュー 音楽・人生で大切なスタンス
彼にとって音楽(芸術)こそ、生きていくための手段。
ニコニコ動画から生え抜きの表現者として作品を生み出し続けてきた一般人が、世の中を感動させる表現者(アーティスト)として確立すると言うストーリーが合わさったことで、今の彼の地位があるのだ。
米津玄師は、“米津玄師”とゆうキャラクターを誰より良くわかり、“米津玄師”を最大限にさらけ出し、“米津玄師”で朝から晩まで全力で生きている。
それもこれまでの”常識”とはかけ離れたルートからのデビューによって。
今も昔も厭世家の本質は変わらない
出典:http://blog.zige.jp/koto/kiji/681933.html
「厭世」とは、世の中を嫌うことだ。
何も生きづらいのは現代に限ったことではない。
参考までに鴨長明の方丈記、こちらを紹介したい。
今から約800年前鎌倉時代の初期に書かれ日本三大随筆の一つとして枕草子徒然草と並び称される古典的名作。方丈記といえば学校の教科書にも載ったり受験にも出てきたりするような大変有名な作品だが最後まで読み通したり、どんな内容か覚えている人はそういないのではないだろうか?
ざっくり説明すると、自然災害や人災、身内の不幸によって経済的不自由になりながらも、自分ひとりの力では乗り越えるのが困難な大混乱とどう向き合いそしてどう生きていくべきなのかを教えてくれる作品なのだ。
まずはこの1枚の写真を見てほしい。
出典:https://www.shimogamo-jinja.or.jp/
この下鴨神社はただの神社じゃなかった。経済的にも政治的にも強いパワーを持った一大組織だった。いうならば老舗の大企業みたいなイメージ。
何で神社なのにそんな影響力があるのか?それはもちろん、時の権力者や富裕層のマネーと彼らとのコネクションに他ならない。
権力者や富裕層は自分や自分の家族の命や健康を神様に守ってもらいたいわけだから、それはもう一生懸命自ら所有する土地や財産を神社に寄贈したのである。その結果、神社の中には大名クラスの資産を持つ有力神社なるものが誕生し、下鴨神社はまさにその筆頭であったわけで。
そして、その下鴨神社の職員の中で最も位の高い禰宜と呼ばれる家にいたのが鴨長明のお父さん。要するに鴨長明さんという人はとんでもない御曹司であったというわけなのだ。だから、明るい未来が約束されたサラブレッドとして、幼少期から自分の家族そして親族などいろんな人から大変可愛がられながら育ってきた。
ところが18歳になったある日のこと、彼の世界は一変することになってしまう。
なんと偉大すぎるお父さんが病に倒れ、他界してしまうという悲劇。
するとどうなったか?
なんと今まで自分のことをかわいがってくれた親戚のおじさんおばさんみんなが別人のように冷たい態度になり、亡くなったお父さんの後継者を決める際にその親族等は今がチャンスと言わんばかりに長明さんを蹴落としたのである。
なんとも汚い大人の世界。
この一件から長明さんは人間が信じられなくなり、
「私には母もいない父もいない・・これじゃあまるで孤児じゃないか。いづれは父のような立場になるつもりでいたが、あの親族等のせいで希望は完全に絶たれてしまった。ああ、これからどうやって残りの人生を生きていけばいいのだろうか。こうなったらもう自分の好きなことをやりまくるしかないな。歌を詠んだり琵琶を弾いたりやりたいこと好きなことに集中しよう」
なんと長明さんは社会的成功に見切りをつけ、芸術という新たな世界の扉を開いてしまったのだ。
ちなみに彼は下鴨神社という組織を辞めたわけではない。籍は置いたまま。だからお父さんレベルとはいかないにしても決められた行事に参加したりしていれば、昇格はあるしそれなりに安定した生活だってできたわけだが、若き長明さんは、
「もう一生平社員でいいです。ほっといてください。」
と言わんばかりに神社の行事に一切参加せず、そして引きこもる。
親族等がのさばってる組織の中でヘコヘコしながら普通の人生を送っても不幸になるだけだと割り切り、自らその安定ルートを断ったのだ。
その代わり彼は自分の全てのエネルギーと時間を大好きな和歌と琵琶にぶつけて、これだけは絶対に極めてやると猛烈に稽古に励んだといわれている。
そんな中、彼にようやく転機が訪れた。
当時の年齢47歳。
もうかなりおじさんだ。しかし、ただのおじさんではない。和歌と琵琶のスキルに関しては、もはや神がかったレベルに到達していたのだ。
そんな中、時の上皇つまり最高権力者であったという後鳥羽院が新古今和歌集という和歌集を作れという命令を出した。
ちなみに、国のトップの命令によって作られる新古今和歌集は、まさに国家事業。そして新古今和歌集に乗せるため全国から和歌を極めし天才たちが召集されるが、その中になんと長明さんが選ばれたのだ。
長年の苦労がようやく報われたと彼は大喜びし、この天から降ってきた仕事をそれはもうガムシャラに取り組んだといわれている。
するとそんな懸命に働く長明さんの様子を見ていた後鳥羽院が彼に褒美をくれてやりたいと言い出した
「そういえば長明くん!下鴨神社とゆかりのある河合神社ってあるだろう?そこのネギのポジションが一つ空いたらしいんだけど、どうだ?ここはひとつ私が推薦してやろうじゃないか。」
後鳥羽院が勧めてくれた河合神社の禰宜というポジションはかつて長明のお父さんも勤めていたポジションであり、下鴨神社の最高位になる人間の登竜門的な職位にあたる。
会社で例えるなら、ずっと無断欠勤し続け五十歳手前まで窓際族だった平社員長明さんに対し、プライベートで仲良くしている国のトップが、その政治力と人事権で君を関連会社の取締役にしてやろうじゃないか?といってきたわけで、
まさに人生大逆転のぶっとびカード!
当然、長明さんは驚きと感動と感激でただただ涙が止まらなかったそうだ。
「父親と死滅してから苦節30年、ついに私の時代がやってきた!この鴨長明、父の名を汚さぬよう不撓不屈の精神で勤めさせていただきます!!」
こう言って彼は千載一遇のチャンスを掴もうとしたところが、またしてもあの親族が足を引っ張りにくるのだ。
そして後鳥羽院に対し親族はこう進言する。
「誠に恐れながら下鴨神社全体の秩序に関わる大きなも問題です。と言いますのも長明はここ30年我々一族との交流を避け、神社の仕事もろくにせず底辺の職位に甘んじているはみ出しものであります。一方、神社の中にはあの長明よりも真面目に働き地道に成果をあげてきたものもたくさんいるんですね。そんな中、あの男を本当に河合神社の禰宜に抜擢してもよろしいのでしょうか?」
すると後鳥羽院は
「確かにいわれてみればそうだね。」
と納得してしまい
「長明君、悪いんだけどあの話はなかったことにしてくれ」
と言ってミラクル人事を却下。
喜びも束の間、長明さんは一気に絶望の淵に叩きつけられてしまうのだ。後鳥羽院も彼に恥をかかせ傷つけたことを理解しているから、別の仕事を紹介するなどどうにか埋め合わせを試みるも・・長明さんは、
「いやありえないです。もう一気にテンション下がりましたわ」
と、わざわざ気を利かせてくれた提案をお断りするのだ。
それだけではない。古今和歌集の編纂メンバーの集まりにも来なくなり、まあそれだけショックが大きかったというわけで、彼はもう俗世間とは縁を切り僧侶として生きる。仏の教えに従って生きる。そう心に誓い、出家という道を選択するに至ったのだ。
もう、嫌な思い出が詰まった京都なんか見たくもない。
「世の中の人間もその住まいも絶え間なく移り変わっていく。それはまるで川の流れのようなものだ。川の水は常に入れ替わり続け一瞬たりとも止まることはない。岸辺に目を向けると水がよどんで泡ができている。その雨も消えたり生まれたりを繰り返し実に儚いものだ。
京都に行くと豪華な家々が競い合うように立っていて、ずっとそこに存在し続けるかのような光景だが実際はどうだろうか?
昔からある家がそのまま存在し続けるなんてことはありえない話だ。
去年火事によって焼失した家の後に新しく建てられた家もあるし、大きな屋敷の後に小さな家が建つこともある。家がそんな調子なら、当然住む人間だって同じことだ。朝に死ぬ人がいると思えば、夕方生まれる人もいるだろう。 生まれては死んでいく人間たちがどこからやって来てどこへ消えていくのか私にはよくわからない。
また、生きている間だけの仮の宿に過ぎない家をわざわざ苦労して立てることも、出来上がった家を見て喜んでいるのもよくわからない。
たとえば、朝顔の花に小さな水の汁が宿っている姿を想像してみてほしい。汁が先に地面に落ち花が残ってもその花は朝日を浴びることによってしぼんでしまうだろう。逆に花が咲きにしぼみ汁が残ってもその汁だって夕方になれば蒸発して消えてしまうだろうけど、そこに住む人間もまさに似たような関係なんだ。」
要するに長明さんは「人生って無常だよね」といっているわけだ。
もっとくだけると、
「人間の”生”というのは実に儚いものなのに皆さん何でそんな立派な家に住みたがるんですか?そんな立派な家を建てるために一体どれだけ自分の時間や心のエネルギーを使い毎日毎日一喜一憂してるんですか?まったく呆れちゃいますよ」
とそのようにおっしゃっているのだ。
しかし、これは決して煽りでもなく彼が物心ついてからかれこれ40年余の年月を過ごしてきたがその間に予想もしない五つの災いに遭遇したから身についたものの見方に由来するものでしかないのだ。
まず一つ
「私が23歳の時に経験した災い。通称、安元の大火だ。風が強く激しかったその晩の20時頃京都の東南から出火し炎はみるみるうちに正門まで達した。ある者は煙でむせて倒れ、ある者は炎に巻き込まれ、それはもう言葉では言い表しようのない光景だった。家財など持ち出せるはずもなく貴重な財宝類などの一切は灰となり損害はどれほどだっただろう。あの火事で焼け落ちた大臣たちの家、その他大きな家小さな家のことごとくが消失した。なんせ平安京の1/3が焼け野原になったというのだから、それはもうとんでもないことだ。人間のやることというのは何故こうも愚かなのだろうか。こんな危なっかしい京都にどうにか家を建てようと莫大な金を使ったり心がボロボロになるまで働いたりする・・なんてつまらないんだ。」
そして二つ目
「その3年後に平安京にある二つの桜通りが交差している場所からとんでもなく大きな竜巻が発生したのだ。その中に巻き込まれた家々は大きさ関係なく壊れなかったものなどなかった。何十メートルも遠くに吹き飛ばされ、そのことごとくが宙に舞った。辻風の中では目もまともに開けていられないし人間の声も聞こえなくなる。地獄には生前に悪行を働いた罪人を痛めつける強い風が吹いていると言うが、この竜巻はおそらくその比ではなかったろう。」
しかし災いの連鎖は一向に断ち切られる様子はなかった・・
同じ年に三つめ
「自然災害でもなんでもなく人間の愚かさがもたらしたいわゆる人災と呼ばれるものだったんだ。なんと京都として長らく歴史を刻んでいた都を捨て、福原という新たな場所に移動するという決定がなされてしまった。しかも国民の理解なしの強行突破だ。国の中枢にいる人間たちはさっさとして我先にと福原に移動した。その一方で京都に残されて何も出来ずにいた人々は仕事も生活の基盤も失いただただ不安しかなかったのだ。競い合うように立っていた豪邸は連日解体されていき、歴史ある京都は見るも無残なほど荒れ果てていたのだ。その一方福原の新しい京都は一向に完成する様子はない。元々福原に住んでいた人は京の都から来た人間たちに強制的に領土を奪われたことを不満に思い、新しく移住してきた連中はゼロから家を建てる煩わしさが不満だったのだ。
その結果、人々のストレスが爆発し、福原に移動してから半年足らずで京都に戻すことが決まったんだ。ああ、何という金と時間の無駄遣いだろうか・・しかし歴史ある京の都はもうそこにはない。あるのはボロボロの家屋と荒れ果てた広大な土地だけだ。そこにもう一度治るといっても当然これまでどうりにいくはずもないだろう。昔の君主は「仁」を持って国を治めたという。余計な贅沢をしないよう自らを律し、さらには国民の家のかまどから煙が立たない日が続けば税金すら免除した。それに比べて今はどうだ。」
四つ目
「養和の大飢饉では洪水が相次ぎ、街中に餓死者があふれ、平安京の横を流れる鴨川周辺はそれはそれは凄まじい数の遺体で埋め尽くされた。都は何事においても田舎からの物資供給に頼っていたのに、それが急に途絶えたのだから一大事だ。宝のように大事にしていた家財道具で売りに出される始末だ。だが飢饉という異常事態において、高価な家財道具なんか一体誰が欲しがるものか。今は食べられない財宝より食べられる粟の方がよっぽど値が張るんだ。世間の人々はこの例えようもない貧しさの中、呆然と困り果てるしかなかった。大変身分の高かったものですら、家を一軒一軒訪ね歩き食べ物を恵んで欲しいと頭を下げて回るほど落ちぶれていた。しかしそうやって歩き回ってるぶんにはマシな方で、急に歩かなくなったと思ったらその場に倒れこんでそのまま死んでしまうことだって決して珍しくなかったし、そんな光景が毎日自分の目の前に送るだ鴨川の河原には餓死者がそこら中に捨てられその腐敗して変化していく有様はもはや見るに堪えなかった。
また強い絆で結ばれた妻や夫を持つ者は必ずと言っていいほど愛情が強い方が先に命を落とした。なぜならようやく手に入れたわずかな食料も愛する者にまず食べさせ、自分を犠牲にしようとする。だから親子であればまずは親が子に先立って亡くなった。困窮を極めた者の中には寺に忍び込み、仏像や仏具を盗んだり柱などを打ち砕き薪として売ろうとしたりする者もいた。これほど罰当たりなものがいるだろうか・・しかしそれすら咎めていられないほど私たちは極限状態の中で生まれた。時代とそして自分の運命を嘆き恨んでいたのだ。」
そして養和の大飢饉が起こって3年後・・
五つ目
「現代地震。これまで何度か地震は経験しているが、この地震は並大抵の激しさではなかった。水が吹き出し山崩れ川は氾濫しそして津波が陸を折った。京都の中で無事であった建物など何一つない。地面の動く音、家が崩れていく。家の中に入れば押しつぶされ、外に出れば地割れに巻き込まれてしまう。この世には数多くの恐ろしいものがある。しかし地震を超えるものはない。私はそんな経験をし、毎日平凡無事に生きていられることだけで十分幸せであると多くの人も感じていたようだ。
もしかしたら、この災いがこれまで世の人々の心を蝕んでいた煩悩をも飲み込んでいったのではないか?
・・私はふとそう思うことがあったが、それはただの勘違いで過ぎなかった。
何年か経っと人々はあのとてつもない悲劇がまるで過去に存在していなかったかのように振る舞いまだ無意味な欲望に囚われたこれまで通りの暮らしに戻っていたのだ。」
どうやら長明さんの処世訓は、自分の力ではどうしようもない天変地異や人災をたびたび経験したことによって形成されていったのである。
長明さんはこの文脈の中で、いままで積み上げてきたものを一瞬にして破壊し、生活を一変させるような災いがこの世界には常にある。しかもそれは人々が災いを忘れた頃にやって来るかもしれないし、連続して襲い掛かってくるかもしれない。だからずっと今の状況が変わらないままだと思って生きてちゃダメですよーと皮肉を交えながらこう主張しているのだ。
「この世とはそもそも暮らしにくいものだ。そして人も住む家も儚くそして虚しい。それは今までさんざん話してきたことだ。よくわかったろう?人間にはいろんな悩みがある。それはその人の環境や境遇によって異なるし、数え挙げればキリがない。たとえば自分が大した身分でもないのに社会的権力を持った人間の家の近くに住んでいることを想像してみてほしい。喜ぶことも悲しむことも声をあげて泣くことも隣にいる権力者の目線が気になってできやしない。これではまるでスズメがタカの巣のそばで生活しているようなものだ。自分が貧しくて隣の家が大金持ちであっても同じじゃないか。自らのみすぼらしさを恥じながら隣の家にヘコヘコと気を使わないといけない。人に頼って生きれば我が身は不自由になり、世間の常識やその流れに従えば窮屈だし、従わなければ変人扱いされる。一体どこで暮らせば落ち着いた生活を手に入れ、この心を休めることができるんだろうか?
私はいま、自分の手を召使とし足を乗り物としているが、これで十分満足している。苦しい時は休ませるし、元気な時は使えばいい。常に動き回っていれば健康にだっていいだろう。着るもの食べるものだって粗末なものだろうが、そもそも人付き合いをしていないんだから、別に恥じることも何もないし、食べ物だってないからこそどんなものでも美味しく感じることができる。
こういった人生の楽しみをお金持ち連中に対して理解してもらおうとは思わない。
私はただこれまでの自分の過去を振り返り、現在を比較した上で率直な自分の気持ちを述べているだけに過ぎないのだ。結局のところ、この世というのは自分の心の持ち方次第なんだ。心が安らかでないならば、いかなる贅沢も無駄になってしまう。正直に言えば、たまに京都に出ると自分の落ちぶれた姿を恥じることがある。しかし、この小さな庵(DIYで作った小屋)に帰ると何ともいえない安らぎを感じるのもまた事実なんだよ。多くの人ってのは、ああ何て世間体を気にしながら窮屈に生きているんだと哀れんでいるんだ。
ん?まさか私の言葉は本心ではないと疑っているのか?
ならば魚や鳥の様子を眺めるといい。魚は水に飽きることはないし、鳥も林の中を好んで住むだろうが、鳥や魚がなぜその環境を好んでいるかなんて我々人間には知る由がない。つまり私の暮らしだって同じことだ。実際に同じ体験をしていない人間にこの快適さは決して理解できないだろう。」
偏屈に聞こえるだろうが、要するに鴨長明さんは余計な事に執着しない生き方を私はしているんですよーとおっしゃってるわけだ。
とにかく、鴨長明さんの人生というのは常に困難や災いの連続で、しかもそのほとんどが自分の力ではどうすることもできないものばかりだったわけで。
そんな彼だからこそ人間に残されているのは現状の克服という道、すなわちどうにもならない困難を乗り越えるという道しかないのかといえば必ずしもそうじゃない。
「この世は無常であり、いい意味で諦めることもまた人間に残された救済への道なんだよ」
と教えてくれているわけなのだ。
だから僕は、一生懸命生きるのを諦めた。
SNSや噂話に耳を傾ければいつも誰かの成功談が降り注いでいるけれども、僕はこれまでの人生で誰かに勝ったという記憶がない。かといって努力してこなかったかといえばちゃんとやってきたのだ。学生の時も社会人になっても一生懸命に僕はやってきた。
そして気がつけばもう29歳。
おいおい待ってくれ。もう立派なおじさんじゃないか。ずっと頑張ってきた結果がこれなのか。状況なんかよくなるどころか年々不幸になっている実感しかないのだ。
そもそも、僕は誰に負けてるんだろう?
何のために必死に頑張ってるんだろう?
全くわからない。
じゃあこれ以上辛い思いをして一生懸命生きなくていいじゃないか。
誰にも邪魔されない、誰にも傷つけられない、自分だけの日々を重ねる中で、これまで自分は自分の人生を生きていなかったことにやっと気づいたのだ。
僕は知らず知らずのうちにレースに参加させられていたんだなあ・・
今はそのレースを棄権したような気分だ。もはや勝ちも負けもない。
ところで僕は何のレースに参加したんだろう?
誰が一番お金を稼ぐでしょうか?大会
誰が最初に家を買うでしょうか?大会
いや誰が一番出世するでしょうか?大会
いやー、何のレースだったんだろう?
さっぱり思い出せないのだ。
この社会はとにかくやる気というものが大好きだ。
僕らはみんな、やる気=素晴らしいという意識を植えつけられている。
巷には失ったやる気を取り戻すための書籍や講演などがあふれている。会社はやる気みなぎった人間をほしがっている。社会全体が人間にやる気を強要しているとしか僕には思えないのだ。
よくネットなんかで
「自分の仕事にやる気がなくて心配です」
みたいな書き込みを見るだろう。
よくよく考えてみて欲しい。
例えば恋愛対象ではないあまり好きになれそうにない人物があなたの目の前にいたとしよう。
そこであなたはなぜ私はこの人のことを愛せないのだろうか?
なんて私は心の狭い人間なんだ。。。
と自分を責めるだろうか?
どんなに努力しても愛せないものは愛せないものじゃないのか?恋愛対象じゃないんだから。
結局のところやる気っていうのも同じなんだ。そしてそれは決して誰かに強制されるものではなく自ら創り出すものだ。にもかかわらず、とにかく世間はやる気を強要する。別にやる気がなくたってとりあえずは働けるし、そうしているうちにその仕事が好きになりやる気だって出てくるかもしれない。
しかし、
ただやる気が出てきたからといって決して油断してはいけないのだ。
そんな時に限ってこんな言葉を耳元でささやいてくる輩がいる。
「うちは安い給料だけどやりがいはあるよ。」「経験こそ財産なんだ」
どうだろう一度はいわれたことないだろうか?
これが俗にいうやりがい搾取だ。ノーギャラあるいは最低賃金でたっぷりコキ使おうという下心見え見えの手法だが、やる気に燃えている人間ってのはあっさりこの言葉に引っかかってしまう。
そもそもやる気というのはすぐ沸くものでもずっと持続するものでもない。さらにすり減って消耗しやすい貴重な資源なんだ。だから、人前でやる気をむやみやたらに見せてもいけないし、誰かのために使ったりしてもいけない。やる気は必ず自分のために使うんだ。今やる気がわかなくても構わない。いつか必ず本気でやる気を注ぎ込みたくなる何かに出会えるから、あなたがやる気を使うのはその時だ。
自分の努力が全く報われず絶望することもあるだろう。
僕は「絶対にあきらめるな」という言葉が大嫌いだ。
これしかないという強い思い込み思考というのは自分を不幸のどん底に追い込んでしまう危険性がある。
自分にはこの会社、この業界しかないんだ。
この仕事を失ったら私は路頭に迷うしかない。
これって、この人に愛されなくなったら私はもうしまいなんだというようなもの。
こういった考えとは、本来とれるはずの選択肢が見えなりあなたを不幸にしてしまう可能性がある。
だからどこかで必ず見切りをつけなくちゃいけない。
株式投資と同じだと思う。株価が下がりに下がった時これ以上損失を出さないために損切りをすることがある。これは株式投資をする上で特に重要な考えで、こういった諦め時の見極めは人生のあらゆる局面で求められるのだ。でも、多くの人がそういった潮時の見極めが出来ず執着した結果、悲劇が起こってしまう。
なぜ僕たちはこうも簡単そうな判断ができないのか?
それはいままで自分が投資した時間やお金を考えてしまうからだ。
いったい何年この仕事に自分の命の時間を注ぎ込んできたと思ってるんだ?
いったい何百万投資してきたと思っているんだ?
もったいない・・時間と金返せ!
なんてことを考えてしまい、諦められなくなる思考のことをコンコルド効果という。
出典:https://www.cnn.co.jp/travel/35115857.html
これはイギリスとフランスが莫大な資金を叩いて共同開発した超音速旅客機コンコルドにちなんで名づけられた。ところがこの飛行機実際に動かしてみると燃費は悪いわ不具合は頻発するわで評判は最悪。そこでもイギリスとフランスはこれまでかけた莫大な費用と時間のことが頭から離れなかったので、コンコルドを手放すことなく彼らは飛ばし続けた。
その結果どうなったか?
乗客全員が死亡するという大事故が起こってしまったのだ。
人というのはもうこれしか道はないと信じ始めると他の一切の可能性を自分の視界から消してしまい、最後には悲劇が待っているというわけだ。だからそんな最悪な事態を避けるために賢明な諦め方というものを知らないといけないし、それができるようにならないといけない。
思い返せば僕らが受けてきた教育の根底にはいつも忍耐とか根性とか努力とかそういったものがあった。じゃあ同じように賢明な諦め方についても教わってきただろうか?いや教わるどころかむしろ諦めることは悪いことだと刷り込まれてきたのだ。
繰り返す。
僕は「絶対に諦めるな」という言葉が大嫌いだ。
じゃあ懸命な諦めをする上で何が必要なのかというと、それは勇気。大失敗を認める勇気。努力と時間が実を結ばなかったら潔く振り切る勇気。失敗してもまた立ち上がり新たなことにチャレンジする勇気。今の僕たちに本当に必要なもの・・
それは努力を上乗せすることなんかじゃなくて賢く諦めるための勇気なのかもしれない。
登山とかでも、あとちょっと行けば頂上制覇だというところで視界が急に悪くなって下山しなきゃいけない話はよく聞くが、何事も引き際を超える前に退いておいた方がいいのだ。
自己肯定感の低い人というのは、自分自身を過大評価し素晴らしい人間であるという幻想が脳裏にへばりついているのだ。この幻想と現実とのギャップが大きければ大きいほど悩みも大きくなる。
「自分はこんなに立派なはずなのに、現実の自分は惨めで取り柄もなく認められてもいない。」
こうして現在の自分の姿に不満が募り、次第に憎たらしく見るのも嫌になっていく。その究極が自ら命を絶つという悲劇につながってしまうのだ。
たとえば、動物のリスは他のリスと自分を比べ自分の方が不細工だとか自分の方がどんぐりを集められなかったと言って自殺したりはしない。なぜなら動物達には幻想がなく、ありのままの自分で生きているから。現在の自分の姿に悲観して、自殺を選ぶのは人間だけなのだ。ならばその幻想を捨てありのままの今の姿を認めそして愛すしかない。
「自分はこのくらいの人間なのだ。それも悪くないな。」と認め、愛するほかない。
偉そうにいう僕も重度の過大評価人間であった。
自分の理想像や幻想を振り払うのに5年ぐらいかかった。
そして、ようやく自分は大した人間ではなく自分が存在しているのはただ生まれてきただけで、別に特別な理由なんか全く無い単なる平凡で不器用な存在であるとわかったのだ。
ダメな自分を認めたとたん、今度は自尊感情というものがふつふつ湧き上がってきた。普段の生活の些細な一つ一つの事に感謝できるようになり、生まれて初めて幸せという感覚が芽生えた。こんなに自分は幸せでいいのだろうかと全く味わったことのない感情に包まれたのだ。
つまり、理想とかけ離れた自分を愛せないという悩みというのは努力や根性によって解決あるものではなく、自分が幻想を捨てありのままの自分を認めることによって自然と解決していくものなんだ。
生き方に違和感を感じるなら、一度ブレーキを踏んで本当に今進んでる方向でいいのか振り返ってみてはどうだろう?
働く気も失せるほどの理不尽さ
高度経済成長期の絶頂だった頃の日本。
この時代は頑張ったら頑張ったぶんだけ報われる時代だったのかもしれない。
たくさん勉強をして名門大学に入って一流企業に入ってしまえば一生安泰。人をたくさん雇い、家というものをたくさん作れば、売上も上がる。働けば働くほど給料も上がる。そんな時代だ。
つまり、「頑張れば人生どうにかなる」という道筋が間違いなくあったわけで、だから自分の夢や希望そして家族のために出世のために辛いことも苦しいことも耐えられたし、歯を食いしばって努力ができた人が大勢いたのではないだろうか?
ところが今はどうだ?
定年まで面倒を見てもらおうという終身雇用神話はもはや過去のものとなり、いつ職を失うか食いっぱぐれるか分からない。そして将来何を目指し、何に希望を持ち、頑張ればいいのか分からないそういった漠然とした不安だけが日に日に大きくなっているだろう。
・・現実から目を背けるほど漠然とした不安だけが日に日に大きくなっていくではないか。
それがいまの状態なのだ。
このように人が絶対的に信じるものを失い何のために生きるのか?その意義を見出せなくなる状態のことを「ニヒリズム」という。
そして、このニヒリズムが蔓延してしまうと、「末人」と呼ばれる人間が大量発生するともう二千年も前の哲学者ニーチェは警鐘を鳴らしたのだ。
末人というのは最後の人間とも訳されるのだが、将来に対して何の憧れも希望もなくただ無難に惰性的に生きることを良しとする人のことをいっている。
これはもちろん本人だけに原因があるわけではない。
ただこの「末人」にだけは絶対になっちゃだめ!
これがニーチェの揺るぎないスタンスなのだ。
一人の若い牧人が倒れているところをツァラトゥストラが発見するというシーン。
牧人というのは馬とか牛とか羊などのお世話をする人のことだ。
その主人が倒れている横で犬がキャンと鳴いている。そして、ツァラトゥストラは何事だと言って近づいていく。そこで彼はとんでもない光景を目の当たりにした・・
なんと倒れこんでいる牧人の口から黒い蛇の尻尾がにょろっと出ていたのだ!
牧人はあまりの苦しさにのたうち喘ぎ、痙攣を起こしているではないか。ツァラトゥストラはその牧人を助けなければ!と近づいていき蛇の尻尾をぎゅっと力いっぱい引っ張って口から出そうとするも、全く蛇を引きずり出すことができない。何度やっても同じ。
そこでツァラトゥストラは絶叫する。
「蛇の頭ごと噛みちぎってしまえ!噛むんだ!!噛んでしまえ!!!」
すると牧人は言われるがままに蛇を噛みちぎり、その頭を吐き捨てそれと同時にパッと立ち上がる。
そしてこの様子を見たツァラトゥストラは次のように語った。
「私の目の前にいた男はもはや人間でも一人の光に包まれたものだった。そして彼は高らかに笑った。今まで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに・・」
言わんとしてることが伝わっただろうか?
この七転八倒している牧人というのは、ニヒリズムにとらわれた人間のことを描いているのだ。
希望もない世界で生きてる意味なんかないじゃないか。頑張ったってどうせ報われないじゃないか。どうせ私なんか。こういったニヒリズムに陥ってしまうと、僕らはあの牧人のように生き苦しい人生を送ることになってしまいますよーといっているわけなのだ。
しかし、牧人は自分を苦しめるヘビを噛みちぎり窮地を脱したが、これこそがニヒリズムの克服にちがいなくて具体的にいえば、
・不安
・恐怖
・失望
・自己不信
にとらわれ、人生を悲観的に捉えることしかできなかった弱い自分を自ら噛み殺せ。
「いま生きているこの瞬間、これこそ私の人生なのだ」
と肯定できる人は、これまで歩んできた過去を振り返ってもこれで良かったんだと肯定することができる。だから、未来に対しても臆することなく前向きに肯定的に歩んでいくことができるのだ。自分が生きる世界、自分の命、自分の人生、その全てが、いまを肯定さえしてしまえば永遠の肯定になる。
堕落のススメ
自分で自分のことを本気で救いたいのならば自分の外側に答えや救いを求めてはいけない。自分の内側にこそ目を向け、自分の生命力に従って生きる。それこそが正しく堕落することであり、自分自身を救う唯一の道なのだ。
ところで、作家の坂口安吾は
天皇制について相当批判していた。
要するにこの仕組みは、日本の歴史を貫く制度ではあるけれども結局は時の権力者や政治家たちが天皇陛下の尊厳を道具としていいように利用しているだけじゃないかということだ。
太古に長く日本を牛耳ってきた藤原氏や将軍家にとって、
何のために天皇制が必要であったのか?
何のために彼ら自身が最高の権を握らなかったのか?
それは彼らが自ら主権を握るよりも天皇制が都合が良かったから。
彼らは自分自身が天下に号令するよりも天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその後俺に服従して見せることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた。
その天皇の号令とは天皇自身の意思ではなく事実は彼らの号令であり彼らは自分の欲するところを天皇の名において行い、自分がまず真っ先にその号令に服して見せて自分が天皇に服す反応を人民に押し付けることによって自分の号令を押し付けるのである。
自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。
だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめそれを人民に押し付けることは可能なのである。
彼らは天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前に我先に自分がぬかづくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していたのだ。
要するに「時の権力者は天皇制をうまく利用してうまいこと日本人をコントロールしていたという歴史的背景を見なさい」といっているわけなのだ。
なぜ彼がこんな話を引き合いに出しているかといえば、戦時中の天皇陛下と軍人政治家との関係性も全くこれと同じ構造だったから。
8月15日天皇陛下から告げられる終戦の玉音放送であり彼は本書で次のように激しく主張したのだ。
「耐え難きを忍び、忍び難きを忍んで真の命令に服してくれという。すると国民は泣いて他ならぬ陛下の命令だから忍び難いけれども忍んで負けようという・・嘘つけ嘘つけ嘘をつけ!!われら国民は戦争を辞めたくて仕方なかったではないか!竹槍をしごいて戦車に立ち向かい土人形のごとくにバタバタ死ぬのが嫌で嫌でたまらなかったではないか!!
戦争が終わることを切に願っていた。
それが言えないのだ。
そして大義名分といい。また、天皇の命令だからと忍び難きを忍ぶ・・・ああ、なんというカラクリだろう、惨めともまた情けない歴史的欺瞞(人の目をごまかし、だますこと)ではないか・・」
要するに日本人は権力者が作り出したカラクリによって、時に安心させられ時に操られ、自分たちの頭でものを考えることをやめてしまっているのだ。
彼はカラクリにはまった日本人に、人間としての正しい姿に戻れとは次のように叫んだ。
「人間の正しい姿とは何か?それは欲しいものを素直に欲しい。嫌なものは嫌だという。ただそれだけのことだ。好きなものを好きだという。好きな女を好きだという。大義名分だろう不義理・人情だろうそういったの着物を脱ぎさり、赤裸々な心になろう。この赤裸々な姿を突き止め見つめることがまず人間復活の第一の条件だ。日本国民諸君!日本及び日本人は堕落しなければならぬ」
誰かが勝手に決めた常識から外れ、思い切って堕落(本心に従う)することで真の人間を取り戻せる。そういっているのだ。
ただこの堕落というのは、メンタルが整ってないと中途半端に終わってしまい、結局また自らカラクリの世界に逆戻りしてしまう。
ではなぜ堕落しきることがこんなにも精神的にきついのか?
その理由の一つに孤独がある。
親にも頼らない。友人にも頼らない。ただ自分のみを頼りにして、社会からはみ出し、たただ一人荒野を歩く人間。それこそが真に堕落した人間の姿であり、その道を選択することによって初めて人は救われる。
そんな人間が本当にいるのかと思ってしまうが、
剣豪、宮本武蔵がまさにこれ。
彼は武士でありながらも武士道という都合よく作られた規範に縛られず、自分の内側に築き上げた戦闘哲学によって戦ったのだ。誰よりも孤独で誰よりも強くて誰よりも自由。それが宮本武蔵という男だ。
話を戻して、
あれだけ天皇陛下のためといいながら我慢を強いてきた兵士は戦争が終わるやいなや我先に闇市できわどいビジネスをし、一方で夫を亡くした妻はすぐさま新たな恋人に胸を膨らませていたではないか・・
人間は変わりはしない。
堕落論が出版されてから9年後、1955年に坂口安吾は脳出血により49歳という若さでこの世を去るが、それからもう60年以上の時が経ち、僕らの生きる世界は大きく変わってしまった。
だが、彼の言葉を借りると違うのはきっと上っ面だけで、人間の本質は当時と何も変わらず多くの人が堕落(本心)と時の権力者が作り上げた虚構フィクションの世界(カラクリ)の狭間でさまよい続けているのだ。
そこから抜け出す方法はたった一つ、「落ちるところまで落ちきる。」
本心に従って生きるのだ。
それしかない。
それによって初めて本当の自分を発見することができるのだ。
「自分はそういう人間だ。ダメなんだ。まずはそれをストレートに認めなさい。」
いまは、ネットでいろいろと自分を変えるだとか自分らしくいられる方法だとか探せばいっぱい出てくる。科学的にはこうするといいとかもういいよというぐらいでてくるではないか。
でも実際どうだ?
何か変わったの?
例えばもともと根暗の人が急に芸人さんみたいに明るくなるとかもう方法論でどうにかなる問題じゃないこともあるわけだ。
本来の自分ではない自分を演じても、ぎこちなくなったり痛々しくなったり、そしてまたそんな自分を責めてしまう。
「まずはありのままの自分を認めよ。
その次のステージにあなたが一生かけて情熱を傾けられる夢があるんだ。」
そんな情熱を燃やせるようなやりたいことがない人に対して、岡本太郎はこう主張していたのだ。
「無条件で生きろ」
この言葉は彼の書籍「自分の中に毒をもて」で何度も強調されている重要なワードだ
「自信なんてのはどうでもいいじゃないか。そんなもので行動してもろくなことにはならない。
ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。
頭が悪かろうが、顔が悪かろうが、財産がなかろうが、それが自分。それが絶対なのだ。そもそも自分と他人を比べるから自信などというものが問題になってくるんだ。自分の信じていること、正しいと思うことに脇目も振らず突き進むんだ。」
人間はえてして他の誰かと比べたがるものなんだ。
それはあらゆる物事を総体的に見るようプログラムされているからだ。
給料が高い。身長が高い。容姿がいい。それは比べる他者がいるからこそ認識できるわけ。
これは自己評価に限らず物事を選択する時もそうなのだ。
こっちの方がお得だ。
こっちの方が儲かる。
そういう人間の行動特性心の動きは今やあらゆるビジネスで利用されている。
岡本太郎はそんな常識に収まった生活から今すぐ外に出ろと叫んでいるのだ。
「才能があるから絵を書いているんじゃないか?とか情熱があるからそこまで行動ができるんじゃないか?という人がいる。
勘違いしてはいけない。
逆だ。
何かやろうと決意をしているから意志もエネルギーも吹き出してくるんだ。何も行動しないのに意志なんてものはない。自信はない。とにかくやってみようと決意をする。その一瞬にかけてみろ。
それだけでいい。
いや、それしかないんだ。
意思を強くする方法なんてない。
そんな余計なことは考えるな。
本当に君が今やりたいことに全霊をかけて集中するなら、うまくいくとかいかないとかそんなことはどうでもいい。
結果は関係ない。
自分の運命をかけるんだ。
難しく余計なことを考えず、もっとシンプルにシンプルにやりたいことに集中しなさい。あれこれ自分をいじくりまわさないでいい。
本当に生きるということ。
それはいつも自分は未熟なんだという前提で且つそれを平気だと思って生きることだ。それを忘れちゃいけない。
もっと激しく自分を突き放してみたらどうだろう?
人に好かれようなどと思わず、人から孤立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。
自分にとって一番の敵は自分自身なんだ。
自分を大事にしすぎているから色々と思い悩む。
そんなに大事にしないで、
「よし!それなら今度から好かれなくていい。」
と決心をして自分を投げ出してしまうんだ。
ダメになって結構。
そう思ってやればいい。
最悪の敵は自分自身なんだ。
自分をぶっ壊してやる!!
それくらいの激しさで挑むんだ。
幸せという言葉の裏をのぞいてみろ。
これで幸せなんだと自分を納得させてる部分がないか?本当は幸せじゃない部分があるんじゃないのか?
それを直視せず、ごまかして何事もないようにヘラヘラしているだけじゃないのか?
給料がある。仕事がある。家庭がある。だから僕は幸せなんだ・・
本当か?
本当に自分は死ぬ瞬間に私は生きたといえるのか?
自分の心の中をよく覗いてみるんだ。心の声によく耳を澄ませてみろ。
本当にこのまま人生を終えて君は満足できるのか?
・・ならば外の世界に飛び出すんだ。
次のレベルそしてまた次のレベルの世界へとチャレンジしていくんだ。
たしかに先へ進めば進むほどきっと今より傷つくし今よりも辛い。最悪死に近づく。
しかし、そちらに行かなければこの世界に生まれてきてよかったと思えるような感情を味わうことはないんだ。」
少数派は「個」として強く生きていくのだ
孤独の中で己の剣を磨き、我が道を突き進んだ宮本武蔵の生き方は、自分を貫く覚悟のできた人の参考になる。
「私は何も剣の技術だけを追求し生きてきたわけではない。
書道、詩、絵画・・そういった様々な文芸についても独学でマスターしている。
なぜそんな器用なことができるかと思うだろう。
理由はひとつしかない。何か一つの物事を極めた人間はその経験を他の物事にも応用できる。
人間生きていれば己の人生を賭けた戦いに臨む時があるだろう。その時にあなたが何を心がけるべきなのかを伝えておく。それは自分の持てる道具をすべて使い切ることだ。
本来使えるはずの武器や道具を何の役にも立てることなくただ腰に収めたまま敗れ去る・・
そんなことは真剣勝負の世界では許されない。ただ注意しなければならないのはそれらの道具が常に有効に働くわけではないということだ。どんな物事にも必ず今しかないというタイミングが存在する。道具とは最も適した瞬間に使われてこそ、その意味をなすのだ。
勝利のためには使えるものは全て使う。」
宮本武蔵といえば二刀流といったイメージをお持ちの方も多いと思うが、彼はいついかなる時でも二刀流であったかというと実はそうではないのだ。人数・場所などから戦術を練り刀の長さや種類を変えたりして、臨機応変に対応することで全ての戦いに勝利してきたのだ。
宮本武蔵は自分の手札が100あるなら100使えと精神論を振りかざしているわけではない。
まずはいま自分が持っている全てのカードを整理する。
次に必要な切り札を絞り込む。
最後に適切なタイミングで切り札を全て出し切り、勝利する。
このように合理的な勝ち筋を頭の中に描く重要性を説いてるんだ。だからこそ彼は刃物を持った人間と60回以上死闘を繰り広げても最後まで命を奪われなかった。
「その秘訣は、、、心(メンタル)のあり方なんだ。」
戦いの場において持てる力を十分に発揮するには、どんな状況でも動じない平常心が求められる。
人生という戦場において、自分や相手の表面だけを見比べてどっちが優れどっちが劣っているとか先入観をもってしまうことは非常に危険な考え方なんだ。いかなる時も心は濁らせてはいけない。これが鉄則だ。
「自分の進むべき道が定まったときも同様だ。」
やると決めたからには雑念を取り払い、あれこれ余計なことを考えず、無心で取り組むといいだろう。
千里の道も一歩からというより、どんな物事だろうとすぐには成果は出ない。地道な鍛錬が必ず必要になる。あなたが今日やるべきことは昨日のあなたに勝つことなんだ。それを何日も何年でも積み重ねていく・・鍛錬とはそういうものなんだ。
どこで戦うのかも非常に重要になってくる。自分にとって有利で、相手にとって不利な場所とはどこなのか?そういったことを考え、徹底的にリサーチを済ませた上で本番にのぞむのだ。
「チャンスのつかみ方についても伝えておこう。」
結論から言えば崩れによく注目するのだ。どのような物事においても必ずどこかで崩れが生じる瞬間がある。たとえば、家が崩れ、身が持ち崩れ、相手陣営が崩れるチャンスとはまさにこういった崩れの瞬間にこそ訪れるものなのだ。それを捕らえ行動をし行けると思ったら一気に畳み掛け勝利を掴む。
要するにスポーツマンシップにのっとってフェアに戦うのではなく、自分の土俵に入り自分にとって有利な環境で戦いましょうというわけだ。
宮本武蔵は、太陽の向き・視点の高さ・足場の高さなど、自分が有利で相手が不利な環境を事前に現場調査をし、そこに相手を誘導した上で敵を叩きのめしていた。
つまり仕事でも何でもうまく運ぶための環境をまずもって作る必要がある。
ちなみに近代では、西洋諸国は多くの国々を植民地化した歴史的勝者とされているがそれは彼らが優れた人種だったからではなく、ただ単に有利な環境がそうさせただけだという説も同じようなものだ。
つまりどんな勝負事に乗る時でも、自分が今いる環境がそもそも勝てる土俵なのかを客観的に見つめることが重要なのだ。
これこそまさに、個人の時代の生存戦略にも当てはまるのではないだろうか?
「今の新卒の子が可愛いそうだよなんだよ。」
大企業はなかなか入れるわけじゃないし、全然内定もらえない学生もいるし、やっと入手できたと思ったら、ブラック企業に入ってしまった。安い賃金で死ぬほど働かされて、さらに何のスキルも身につかない。耐えられずに辞めたら辞めたで実績もスキルもないもんだから、今度はまた違うブラック企業に入社してしまう。
それだけじゃない。どういうことか?
それは、
学生の不安につけ込んで飯のタネにしてる連中がいるんだ。それが就活ビジネス。これをしないと就職できないよとノウハウを提供してとにかく不安を煽る。煽って煽って煽りまくってビジネスにする。そんな会社が山ほどある。何も知らない若者や学生たちはそんな大人たちのビジネス、資本主義の食い物にされてるんだ。
つまり、
世の中のルールや流れを知って、この世界を生き抜くための知恵と武器をもとに臨機応変に戦術を変える人生をかけた戦いをするんだ。
日用品を思い浮かべてみてほしい。
石鹸とか歯ブラシとかそういうやつを。
市場に出回ってる商品が消費者にとってみれば、どのメーカーのどの商品を買っても大差ない状態のことをコモディティ化という。つまり個性がなくなったら差別化出来なくなったらそれはもう魅力のある商品とは言えないのだ。
特に日本の自動車部品メーカーなんか分かりやすい。全部高品質で、多少の差はあるかもしれないですけど一定のスペック以上で品質には何ら問題ないだとするならば安いので良くないってなるのではないだろうか?
そうなると価格はどんどん安くなっていくわけで。街を見渡してみてほしい。よく行く牛丼屋も職場の近くにあるハンバーグ屋さんも駅周辺の居酒屋さんも目に映るありとあらゆる商品みんなコモディティ化してないだろうか?
コモディティ化するのは何も商品だけじゃない。僕たち人間の労働市場における人材の価値もコモディティ化が起きているのだ。
・TOEIC
・資格
・学歴
・営業実績
そんな一定の基準をクリアした人材がゴロゴロいるんだったら、その中で一番安い賃金で働いてくれる人材を取りたい。これが今の企業の考えでありグローバルスタンダード。もっと言うと今の資本主義のシステムってのはそういうものなんだ。
その証拠に高学歴ワーキングプアだってたくさん生まれているし、最低賃金でも喜んで働く外国人労働者も増えている。
ますます買い叩かれていく。
さらに外国人の方が言語複数喋れたりするし、企業は外国人採用枠を増やしてるから日本人とだけ仕事の奪い合いをしてる場合じゃないのだ。
僕たちの生きる道ってのはコモディティにならないこと。
他に代えがきかない君しかいないんだという存在になるしかない。
というのも、
パソコンのオンラインゲームにハマる人が多いのは、そのゲームの世界観が努力が報われるシステムになっているからだ。ゲームって経験値を貯めてお金を貯めて武器を買って時間をかければその世界でレベルアップできるクリアができ、認められるそういうシステムなのだ。
このシステムというのは、結局のところ努力は報われる。努力を尊ぶべきという価値観に基づいていて、でもゲームの世界はそうでも現実の世界ではもうそうじゃなくなっている。これが皮肉なことに思えてならない。
メンタルを整えることが最強のライフハック
では、これからどんな社会になっても自分を見失わず手を変え品を変えて生きていくために、メンタルを整えることが最優先課題になってくるのではないだろうか?自分の優位性を生かしていくのに必要な知識や経験を積み上げ、問題が起きても平常心で淡々と対処していくのだ。
思考のクセに気づく
あなたは自分の思考のクセに気づいているだろうか?僕たちは紙の端で偶然指を切ってしまったとき、反射的に「イテッ」と声を出したり、うっかり流しを熱水にして手を入れてしまって「アチッ」と反応する。それと同じように反射的に思考することを「自動思考」という。
たとえば子どものころ、あなたは大人に向かって元気に挨拶したとする。すると、いい子だねと褒められてお菓子までもらえた経験をすると、あなたは無意識に学習することになる。『挨拶は元気よくすると喜ばれる』と。
そしてそれを何度も繰り返し、大人になったいまでは意識しなくても挨拶が自然とできるようになるが、逆にこの経験が持てないと大人になってものまともに挨拶ができなくて苦労することになる・・
一方で、両親が共働きで忙しく、かまってもらえずに寂しかったときのこと。あなたは偶然発熱したとする。すると親は仕事を休み、あなたに付きっきりで看病をしてくれた。そしてあなたはまたもや無意識に学んでしまう。『寂しくなったら体調を崩せばいいだ』と。
そんな幼少期に学び取った必勝パターンが、いま現在の成功にふさわしい自動思考なら大切にすればいいが、マイナスに働くものであるなら即手放すべきなのだ。
これまでにあなたの周りでもいたかもしれない。
やたら寝不足なことや調子がすぐれないことをアピールしてしまう人。
これは本人に自覚がなくても、幼少期に手に入れた必勝パターンを無意識にも再現してしまっている場合がある。考えてみてほしい。
周囲にとってよく思われない幼少期の自動思考を持ち続けている人間が大人になったいま、望む結果を得られているのか?ということを。
誰だって不調が続くときもあるが、いつも体調がすぐれないことをアピールしてしまうと、体調管理もできない無能な人材として扱われ、居場所がなくなる。
それなのに意識下では、「なんてひどい上司なんだ」と不満を垂らしてしまう。
無意識下では自分でシナリオを書いているのもかかわらずに。負のループから抜け出すには自分を窮地に追いやる自動思考の存在に気づくしかないのだ。
だからこそ、ふさわしくない思考のクセは手放していこう。実際に僕自身が手放せたことで前に進めた思考のクセを一つ紹介しよう。
悲劇のヒロインを演じていないか?
「うちの上司には何をいってもダメだろうな」「周りはいつも僕のことなんてきっと理解してくれないんだ」
これらは、れっきとした他責思考だ。まさにニーチェ哲学のニヒリズムじゃないか。
他責思考の人は、自ら被害者のポジションに立候補してしまう。そうすることで、加害者を誕生させ、僕は悪くない、悪いのはすべて自分以外のものなんだと。
はっきりいわせてもらう。
この状態はとても生きづらい。
だって自分はいつも何かの被害者なんだと感じて生きていくのだから。いつもため息をついている人は、すっかり他責思考を習慣化してしまっている。
被害者のポジションに身をおくことで親の愛情を受け取れたり、友人が優しくしてくれたり同情してくれたりした子どもの頃はそれでも良かったと思う。
本当に非力で誰かに依存しなくては生きていけなかったのだから・・
しかし、この考えは恐ろしい。
「他責思考」をいつまでも続けてしまうと強烈なマイナスメッセージを潜在意識に植え付け強化し続けることになる。
「この無力な僕は生きる上で自らに主導権はいっさい持つことができない」という信念を強めてしまうのだ。
「自分が頑張れるかどうかは上司次第」「自分が理解されるかどうかは周りの人間次第」と自分の人生によくないことが起きれば、ことあるごとに他人のせいになる人生になってしまい、つねに外部環境に翻弄され続け、自信を持つことからかけ離れたセルフイメージが出来上がる。
自信が持てない人というのは、何かを他者のせいにしてしまう思考のクセがあって、行動できなかった場合に、そうせざるを得なかったことを正当化してしまうのだ。
この正当化するときにこそ自分を守るために頭が天才的に回る。だからこそ、その能力を自己正当化に使うのではなく、自分が素直に行動に移せる理由探しに使おう。運命が開けてくる。
自己を受容する
未熟な自分でいい。
「欠点」を認めて受け入れることで分裂していたものが一つになるように、自分の中に強い芯ができてくる。
この自分とつながった状態を「統合」と呼んでいて、この状態こそが人は一番いいエネルギーを発することができると信じている。
また、自分を許せるほどに他人も許せるようになる。以前なら、他人の至らない点を見つけてはイライラし不快な時間を過ごすことが多かったが、いつの間にかそれさえも許せる自分になっていて、そんな少しばかり器が大きくなれた自分が微笑ましく思える時間に変わってきた。
結局のところ、自分の人生に不快な時間が多いのか?少ないのか?それは自分次第である。
「不完全である自分を受容し開示できるようになると人の役に立てることができる」
これは米津玄師の活躍で救われる人が大勢いることから証明されているのではないか。
僕は「他人の評価を基準に」なんでもできる人になれば、それだけ受け入れてもらえるようになると自己研鑽に励んできたが、そうじゃなかった。完璧な人間は面白くない。そんなもの魅力にならないんじゃないのかな。
目標を持つ
どんな形でもいいから目標を持つこと。目標が定まればどんなときも自分の意志で選択や判断をしていると思えるからだ。困難や挫折を自分の力で克服できたと思えること、失敗の後にうまく立ち直って解決できた経験が本当の自信になる。
そして、うまく成長できるとあなたは「個性的だけど、なぜか憎めないキャラ」になって愛される。
人の気持ちを読むのが苦手、空気を読むのが苦手ということに対してすら、「自分は空気を読むのが苦手だけど、そんなことはどうでもいい」と思える。目標達成が最優先なのだから。
そもそも空気なんて読めなくても人生はやっていけるのだ。
少数派な存在であるからこそ、人と違うことをやるべきなのだ。
人と違う。むしろ人と同じことをするのがたまらなく苦痛で難しい。仮にも他者に合わせようとすると、他者の意見を理解するだけで精一杯になり、自分の確固とした判断基準が持てなくなる。
他人の評価を気にしているうちは意見が異なることに戸惑い、同じ人でも主張に一貫性がないこともあって幻滅することもあるだろう。
ちなみに会社はあなたを雇用することによって、どのようなメリットがあるのか?ということをいつもシビアに考えている。
メリットがない従業員を雇い続けることによって、会社が存続の危機に陥ることだってあるのだ。
コミュニケーションスキルを重視する職場では、対人関係が苦手な人間が不利な状況に置かれるという残酷な現実が横たわっているのである。
人とあまり関わらなくてもいい仕事は、会社の中にそれほど多くは用意されていないし、できないのである。運悪く、なかなか仕事が見つけられない場合は、多様な働き方を模索していくことが必要になってくる。
多数派の社会から自分を救いだすために
ひとりで働き、時間に縛られず、付き合う人、住む場所も選べたら・・
そんなふうに願いながら、毎日決まった時間にベッドから飛び起き、満員電車で出勤し、決まった職場で決まった業務を決まった時間までこなし、決まった同僚に愛想笑いし、決まった給料をもらい、決まった場所に住み、決まったような消費をし、決まったような歳の取り方をして人生を振り返る暇もなく死んでいく。
若くして理想の姿を叶えられる人はほんの一握りしかいない。
あなたはこう考えるかもしれない。
「理想を手に入れられないのは十分なお金を持っていないからだ」と。
それも一理ある。
お金の問題をクリアできるなら、先ほど挙げたような理想はおおむね達成できる。
世の中に存在するほとんどの呪縛からは、お金があれば解放されるといってもいい。
しかし、それはあくまで表面的な原因に過ぎない。
もっと根源的な原因がある。
それは思考だ。
なぜあなたが理想を目指す上で、思考が問題になるのだろうか?
それはすでに書いたように、思考があなたの人生の向かう方向を決定するからだ。
「理想の暮らしを送りたい」という言葉を人が口にするとき、そこにはすでに「どうせ無理」というニュアンスが含まれている。
例えば、新卒3年目独身の近藤さん(25歳男性)からは未だ現実を受け入れられず思わず友人に愚痴をこぼしてしまう姿を想像できる。
彼は自由になりたいと願望を口にはしているが、本気で自由になろうとは思っていない。
彼の本音はこうだ。
「自由な奴らはいいな。でも自分にはそんな勇気も才能も持ち合わせていない。自由なんてものは、ごく一部の天才か、宝くじに当たるか、資産家の子供に生まれつくか、よほど運のいい人間だけがありつけるものなんだろう。だから自分はこれまで通り、会社にこき使われて、休日と仕事終わりの時間だけが楽しみな人生を送るしかない。ああ、なんて俺って不運でかわいそうな人間なんだろう。」
そして、もしあなたが友人だったなら、彼にこう言葉をかけるかもしれない。
「甘えたこというなよ。人生そんなものさ。みんな苦労してるんだから。」「家族のため、社会のため、一生懸命働くのが大人ってものさ。」「仕方ないよ。人間には分というものがある。なんの能力もない僕らはまだ働く場所があるだけマシなんだよ。」
断じて言わせてもらうと、どちらのタイプも、思考を変えない限り永久に自由にはなれない。
これから先もお金・時間・人間関係に縛られた人生を送りつづけることになる。
不自由な状態をよしとする思考を持っていることが問題なんだ。
彼らは望んで自由から逃走する。
もし彼らの勤め先の会社が倒産したら、例えいくら預金があっても、慌てて次の勤め先を探して走り回るだろう。
そして、運よく再就職できれば、やれやれと安堵して、また愚痴でもこぼしながら不自由な生活を続けるだろう。たとえいくらビジネスの才能があろうとも、それらをやろうとすら思わないので、一生自分の才能に気づくことはないだろう・・・
結局、思考がサラリーマンのそれである限り、永久に抜け出せない。彼らが今いる場所は、彼らの思考・価値観にしたがい、彼らの意志で居続けた場所だからだ。
多くの人が、自分が自由になれないのはお金がないからだと言い訳がましくいうが、そもそも時間と労働力をお金に変える賃金労働者という身分に落ち着き、会社を選んで就職活動したのも、不満を感じながらも現状にしがみついているのも、
全部自分起因なのだ。
生まれ落ちた身分によって職業がほぼ決定されていた近代以前ならのはともかく、いまはスマホとインターネットさえあれば、気軽に自由になるための知識・情報を手にすることができる。
いまや一流の起業家がブログやSNSで日常的に発信しているし、図書館に行けばスティーブ・ジョブスやらジェフ・ベゾスやらの思考が翻訳されてあって、いくらでもただで読める。
インターネットの発達で起業のコストやリスクはほぼゼロに近いものになった。あなたが自由を目指したからといって罰するような法律もない。歴史上これほど一般人に自由への道が開かられている時代はないのかもしれない。
にも関わらず、なぜ自由に憧れる彼らは、不満を感じながらもサラリーマンという状態から抜け出す素振りを見せないのか?
それは、彼らが会社に雇われる以外はあり得ないとする思考や価値観の枠から抜け出せないからに他ならない。
例えばそれは次のような言葉に落ち着く。
「社会人は会社で働くもの」「リスクをとることは悪いこと」「フリーターやニートは悪」
そういった価値観は、幼い頃から僕たちが親・教師・メディアによって徹底的に刷り込まれた結果に過ぎない。
好きなように生きろなんて誰も言わない。
ベルトコンベア式に学生の頃からサラリーマンを目指すしか道はないと教育する。
だから僕らは毎日せっせと学校に通い、血みどろの受験戦争をし、スーツを着て就職活動をし、なんの疑いもなくサラリーマンの道を歩まざるを得なくなる。
たいていの日本人はサラリーマンとしての生き方に違和感や生きづらさを感じながらも、それ以外の生き方はあり得ないんだよと思い込まされているので、ストレスをためながらも必死に我慢する。
心と体を壊してまでも。
幼いころから鎖に繋がれた象は、成長して鎖を引きちぎれるようになっても絶対に逃げ出さないそうだが、彼らにも似たようなものである。
自由に憧れはするも、自由になろうとも、なれるとも思っていない。
彼らは才能がないのではない。
ただ自由を目指さないだけだ。
目指さないのだから当然自由にはなれない。彼らが自由になれる道を閉ざしているのは、お金ではなく彼ら自身の思考だ。
もしあなたが自由な状態に憧れるのだとしたら、まず自由になれる思考を身につけなければならない。
思考を変えること、それは自由な人生を受け入れる準備をすることでもある。
あなたが心のどこかで、
「人は雇われて働くもの」「自由になれるのは一部の特殊な人たちだけ」
なんて思っているとしたら、たとえ誰かがあなたに成功のチャンスを与えてくれても、あなたはすぐにそれを受け入れることなく、時間と労働力をお金に変換するため、明日も朝から憂鬱な気分で会社に向かうに違いない。
他人が言う「正しいこと」は本当に正しいことなのか?
「~すべき」「~すべきではない」
という思い込み、いわゆる常識というものが、あなたから自由を奪う。
人間は実にたくさんの常識に支配されている。この常識が僕らを縛りつけるのだ。
例えば次のような常識を、あなたは漠然と信じてはいないだろうか?
「社会人になったら就職するもの」
「複数の異性を同時に愛してはいけない」
「結婚はするもの」
「恋愛は異性間でするもの」
「人に迷惑をかけてはいけない」
「法律は絶対に守らなくてはいけない」
もちろん実際はもっとたくさんの常識があって、ここに挙げたものなんてほんの一部に過ぎない。
そして、世の中にはこういった常識を無条件に信じて、常識から外れるとすぐに心の平穏をなくしてしまう人たちが多い。
彼らは常識というものが何か人類一般に課せられた天命・使命のようなものだと考えている。常識に従わない人がいると、老婆心からか過剰に心配して忠告したり、意地悪だと不良品を見るような目を向ける。
しかし、あらゆる常識にしたがう生き方は、それだけ非常に心苦しいものだ。
現代社会における常識の数はあまりにも多すぎるし、その一つ一つのハードルはコミュニケーションが苦手で、関心の幅が狭く、こだわりが強い人間にとって難易度が高すぎる。
もしそれらをすべてクリアしようとしたら、その他大勢の人間よりもかなりのエネルギーが必要になるのではないか?
そもそも常識とは他人があなたの意思や状況とは無関係に決めたもの。
常識にいくら自分の考えを合わせてみたところで、それは多数派の価値観に過ぎないので、息が詰まるものがあり自分の人生を生きているという実感は得られない。
僕のモットーである「何者にも惑わされず、ありのままで生きる」だなんて、日々我慢して必死に働いている人からしたら非常識で実に不愉快極まりない思想なわけで、一周まわって笑いの的だ。
仮にもあなたがそんなことを言い出したら、きっとご家族や親しい友人はこれまた善人として全力で止めにかかるだろう。
あなたはド真剣なのに頭おかしくなったんじゃないかと思われる。
常識から外れて生きることは、彼らからすれば得体の知れない危険な世界へと突き進む行為であり、常識を信じてやまない彼らの必死の努力をあざわらう態度にも見えかねない。
もし、周囲からの反感を恐れて今後もあなたが生きづらさを感じながらも他人たちと同じ常識的な生き方をしたいなら、そういう声を聞き入れるしかない。
頑張って彼らのいう常識を毎日クリアしていけば、「立派だね」と褒めてもらえるも状況を変えていけない自身の非力さを嘆くしかなく、相変わらず息苦しい他人任せな人生を送れるに違いない。
しかし、あなたが本当に自由を望み、これからを思いのままに生きるという非常識な選択をしたのなら、常識の鎖はなんとしても外していかなければならない。
常識の鎖が全身に絡みついたままだと、あなたが自由に向けて歩き始めたにも、すぐにたくさんの人があなたに絡みついた鎖をたぐりよせて、元の場所に連れ戻そうとするからだ。
常識なんて多数派の意見に過ぎない
どんな常識も絶対かつ神聖なものである根拠なんてほとんどないだろう。国境を一歩またいだら、所属するコミュニティを変えれば、時代がほんの少しでも進めば、それまでの常識は一瞬にして非常識になる。
世界に目を向ければ、国民全体がほとんど働かない国もあるし、一夫多妻が当たり前の国もあるし、同性間で愛し合って幸せに暮らす人たちもいるし、国民国家という概念すら持たない人たちがいたりするわけで、日本なんてほんの70年前まで、天皇陛下のためなら命すら喜んで差し出すのが常識でもあったのだ。
常識という鎖から解放されるには、そもそも「絶対的に正しいこと」というものが本来存在しないものだと理解したほうがいい。
コミュニティごと、時代ごとに「正しい」とされる基準が存在するだけだ。「あなたは正しい/正しくない」と一方的に決めつけてくるのは、神でもなんでもないあなたと同じ人間なんだ。場所や時代、状況によっては人殺しさえも正義として称賛される。
昔、見たことのある刑事ドラマで忘れられないシーンがある。
浮気をしていた夫を殺した女が逮捕され、パトカーで連行される際に「罪を償って、綺麗な体になって帰っておいで」と主人公の刑事さんがセリフを吐き、女が涙ぐみながらうなずいていた。
僕は不思議で仕方なかった。
なぜ、塀の中で数年生活したら、罪が帳消しになって「綺麗な体」になれるのか?
彼女が塀の中で生活を送ることと、彼女の殺人や殺された夫の近親者への償いになんの因果関係があるのか?
しかもその量刑を決めたのは、殺された夫でも夫の近親者でも神でもなければ、赤の他人の裁判官。
そして、その裁判官が参考にしているのは、どこかで限られた少数の人間が僕らの目の見えないところで相談して作り上げた六法全書だ。
なぜそんな他人たちの判断を受け入れることが当たり前とされ、刑期を終えた人間を罪が償われたものとして僕らはとらえられるのだろうか?
そもそも罪とはなんだろうか?
原爆を投下し無差別に広島市民20万人を焼き殺したエノラ・ゲイ号の航空士セオドア・バン・カークは、戦争を終結に導いたアメリカの英雄として3人の子どもと4人の孫に恵まれて、何不自由なく天寿を全うして93歳で死んだ。
徳川家康しかり豊臣秀吉なり見方を変えれば大量殺戮の指導者だが、身に余る地位と名誉を得て長生きし、死後は神社で神として崇められ、多くの歴史ファンに愛されている。
産婦人科医は胎児を人間未満として何百人殺しても罰せられることはないし、刑務官は冤罪だろうが何だろうが構わず死刑囚を殺して国から給料をもらっている。
それなのになぜ、
浮気をした男を1人殺したというだけの女が裁かれ、たった一度きりの人生を棒に振らなければならないのか?
・・僕は別に法に意味がないといっているわけではないし、殺人を肯定するわけでも、産婦人科医や刑務官を貶めたいわけでもない。
僕が伝えたいのは、善悪の区別や重さといったものは、どこかの人間が勝手に自分たちにとって都合の良い基準を作り出して判断しているに過ぎないということだ。
それらは時代、コミュニティで力を持っている側の言い分が法やルール、空気感を形成する。その上に物事を自分で考えるのをめんどくさがった大勢がそれを常識だと採用しているだけなのだ。
僕はたまたま常識を信じることができない、不器用な人間に生まれてきてしまった。
常識は信じている人が多いからという理由で根拠すらなく存在するしきたりのことで、権力がひっくり返るだびに法が書き換えられると、大衆は少しばかりの混乱するも、すぐに大勢が支持する常識に馴染みはじめる。ああなんて浅はかなんだ。もうこれこれ以上説明するまでもないじゃないか。
そんな移ろいやすい赤の他人が操作する常識や正しさなんてものを、あなたの一度しかない人生の基準に据えることに、どれだけの意味があるのだろうか?
あなたと同じ人間が決めたことであれば、常識など絶対でもなければ神聖なものでもない。
そんな常識というものが、あなたにとって正しいと腑に落ちるものであればこれからも従い続ければいいし、常識があなたの幸せをないがしろにするものであったり、明かに間違っていると感じるのであれば、いっそのこと放り投げてしまってもいい。
幸運にも現代の日本では思想・良心の自由が認められているから、法にさえ触れなければ、あなたがどんな生き方や考え方をしていても罰せらることはありえないのだ。
自由とは常識の反対側にある。
他人が決めた正しさが、あなたにとっても正しくてそれがまして幸せにつながるとは限らない。
あなたが正しいと信じられるものだけがあなたにとって正しい。
僕は人生にまつわる常識を捨て去ったことで、以来すこぶる快適な毎日を迎え入れることができた。
「仕事だから仕方ない」は麻薬のような言葉だ。
水戸黄門の印籠のように、あらゆるもごとがそれで丸く収められてしまう。
言うことがその都度違う上司。責任が増えても給与は変わらず、人は減るのに業務は増える。挙句は突然の辞令で、縁もゆかりもない土地で孤立することになっても・・
ただ、「仕事だから仕方ないよね」で片付ける。
仕事は人生におけるあらゆる局面で影響力を及ぼすのだ。
仕事という存在が土足でプライベートに食い込んできては、かたときも頭の中から消えることがない。
同時に、
多数派が信じる「仕事」というものを神格化できない人への風当たりは相当強い。
どうやら世の中の多くの人は、自分と同じだけ汗(冷や汗・脂汗)をかいてない人に対して強烈な不満を覚えるらしい。
僕のように彼らのいうところの「仕事」という行為にあまり多くのエネルギーを費やさない生き方をしていると、一定数必ず嫌悪感をあらわにする面倒な輩があらわれる。そんな彼らが血祭りにあげる対象として、
典型的なのがニートと呼ばれる人たちだ。
定職から離れ、次のステップに向けて彼らなりに努力している人間を世間は散々にこき下ろす。
学生時代優等生だったのにいまはどこそこの誰々さんとこの息子はニートをやっているだなんて噂が耳に入ったら最後、大喜びで陰口を叩くご近所や親戚も多いだろう。
なんて親不孝な奴なんだろうと。
だから両親も体裁を気にして一刻も早くとにかく働いてほしいと願うのである。
昔、「働いたら負け」とメディアで発言した若者がいて、彼を笑う人や批判する人が大発生したことがある。
なぜ彼らは、他人が働いているかどうかがそんなに気がかりなのだろうか?
そんなに働くことが大好きなら、ニートが増えるのは万々歳なはずだ。
社会からドロップアウトする人は増えれば、必然的に真面目に働くあなたの希少性は高まり、働きたい会社で働ける可能性が高まる。それなのに誰かがニートしているという話を聞くと、それが自分とは生涯無縁である関係にもかかわらず、嘆いたり非難したりする。
もちろんニートが増えると、最終的に生活保護受給者が増えたりして、社会的なコストが増大する可能性はある。そうすると彼らを養うのは働いて税金を払う側だから、許せない気持ちになる理由も理解できなくもない。
では、ブログやYouTubeで生計立てている人に対してはどうだろうか?
彼らは社会的なコストではないし、税金を納め、消費活動をしている限りは、社会にとって有益な存在ではないか?
それでもやはり、ニートに対して目くじらを立てて怒る人は、彼らに対しても顔をしかめるのではないだろうか?
決まった労働もこれといった人付き合いも必要としない、そんなの真っ当な仕事ではないと断じるのではないだろうか。
結局、額に汗をかいているかどうかだけが彼らの関心なのだ。
お金とは額に汗した対価としてもらうものだと思っている。
だから、汗することなくお金を受け取る人がいると、ズルをしていると感じ、「俺たちはこんなに頑張っているのに!!」と感情的になってしまう。
そういう人たちは、お金を得るための「仕事」という手段がいつしか目的になってしまっている可能性が高い。
社会に価値を提供することに目を向ける
そもそも働くこと自体に価値はないのだ。
例えば、
会社に指示されたからといって、公園の砂場に穴ほって埋めてを永遠に繰り返してる人を、あなたは働いているから立派だと感じるだろうか?
職場の廊下で水の入ったバケツを持って苦しそうに突っ立ってる人を素晴らしいと褒めるだろうか?
だぶん違うはずだ。
では、なぜ働くことが尊いかというと、それは社会に価値をもたらす行為だから。
あなたが働くことで、世の中のサービスが充実したり、お金の巡りがよくなったりして、社会がほんの少しだけ豊かになれるのだ。
しかし、社会に価値を提供する方法は、何も労働を毎日クタクタになるまでやることとは限らない。
自動販売機を管理する人がいるおかげで、僕らは24時間喉が渇いたら気軽に飲み物を買うことができる。
マンションやアパートを建てる人がいるから、僕らは家を自分たちで建てなくても住まいを手に入れることができる。
工場を建てる人がいるから、多くの人が職を得ることができる。
株に投資する人がいるから、会社は資金を集めて事業ができる。
たくさん税金を納める人がいると、国も地域も豊かになれる。
いずれはロボットが人間を雇うよりも低コストになり、人間が労働から解放される日も近いのかもしれない。
でも、そんなに待てない僕は、常識とは無縁な場所に逃げ込んだ。
自分の力で生きられるのであれば、働き方を誰かに強制されることはない。
成果さえ出していれば、僕の勝手である。世界が変わるのを待つより、自分が変わるのが早いし、確実だ。
いまは過去の歴史の中でも、最も個人に自由への道が開かれている時代だ。一刻も早く自由になりたければ自らそれを掴みに行くしかない。
繰り返しになるが、働くこと自体が尊いのではない。
社会に価値をもたらすことが尊いのだ。
極端な話、たとえ働いてない状態であっても、あなたがいることで価値を生み出せるのであれば働く必要はない。
むしろ、一切働くことなく価値を生み出せるようになったほうが、結果的に社会をより豊かにできるし、あなた自身も豊かになるのだから、積極的にそちらに向かったほうがいい。
むやみに手段としての労働を神格化し、汗をかくことに満足してしまわないことだ。
そして、究極のところ僕は別に社会に価値なんてもたらさなくていいと思っている。
「国や社会に貢献しなければならない」なんてのは、義務教育課程でしっかりと植え付けられた常識に過ぎない。もちろん、「社会の維持はどうなるんだ?次の世代への責任がないぞ!」なんてこともいわれるかもしれないが、あなたの人生なのだから、何のために生きるかはあなた自身で決めるのだ。
自由を信じ、理想を目指し続ける
あなたが自由になるためには、何よりもまずあなたが自由になれると信じ、あなたにとっての自由を目指し続けなければならない。
自由をあきらめた人間には、自由は絶対に訪れない。
世の大多数の人たちが自由になれないのは、それを実現する能力がないのではなく、そもそも自由を目指していないからだ。
自由を目指していなければ、他人の指示で働く状態が当たり前、有無をいわず他人からの意見を受け入れるをよしとする思考になってしまう。
カラーパス効果というものがある。特定のものを意識することで、今まで見えていなかったものが見えるようになることだ。例えば、今日のラッキーカラーは赤と言われたら、なんとなく街の中で赤いものが目につきやすくなったりする。
僕は28歳になるまで、普通の人間が収入を得る手段は、会社に雇われて時間と労働力を売るほかにないと思い込んでいた。
いや、思い込むしかなかったのだ。
だから、学生時代はひたすらバイトに明け暮れていたし、思考停止したまま就活しサラリーマンとして企業で働いた。
僕はこの暮らしがずっと不快だったのだ。
本気で自由になりたいと思い、そのための情報を探し求め、情報発信で自由を手にしている人たちの存在を知った。
そして、そうした人たちが発信する情報をまずは疑いの目を向けずに受け取り続けたことで、どうやら世の中にはサラリーマンとはまったく別の論理で動く世界が存在することをリアルに感じることができた。
仮に僕が自分が望む世界で生きていくことを本心から望んでいなければ、そもそも自由になるための情報を調べることなく、実際に自由を手に入れている人たちの存在も知ることなければ、ひいては自分のビジネスを持とうだなんて思いもしなかっただろう。
いまになっていえるのはテレビでも、本屋でも、ネット上でも、あるいは日常の会話の中でも、あなたが自由になるためのチャンスやきっかけはたくさん転がっている。
自由を信じない人たちは、そういう情報に運よく遭遇しても、気にも留めないで素通りしていく。
だが、自由を望み信じ目指していける人は、そういう情報に出会ったときに、素早く行動につなげることができる。
結局、自由を手に入れられるのは後者だけなんだ。
理想の未来から逆算する
あなたはどんな暮らしができれば幸せだろうか?
これをできるだけ具体的にイメージしてほしい。
幸せの形が明確になったら、次はそれを叶えるためには何をしたらいいのかを考えなくてはならない。
当たり前のことだが、漠然と願望を想像しているだけで理想が叶うことなんてありえない。
理想を目標に変え、それを実現するためにやるべきことをゴールから逆算する必要があるのだ。
例えば若くして自由な人生を送ることが目標なら、会社以外に収入源を作ることが必須条件になってくる。
残業を頑張るだとか、手当目当てに資格をとるだとかは論外だ。
それらはあなたが自由という目標を追っていく上でなんの関わりもないどころか、時間と体力を無駄にしてしまう可能性がある。
友人にこんな人物がいる。
彼はある大手企業に勤めていたが、子どもの頃から叶えたい暮らしがあった。
その暮らしは、誰にも邪魔されず自分の世界に没頭できる暮らし。
彼はうすうすわかっていた。
いまの人生の延長に理想の未来が実現する可能性がないことを。
このまま自分が納得するまで夢を追わないまま年老いたら、自分は死ぬときに必ず後悔するだろうと言っていた。
しかし、彼の仕事は忙しすぎて、とても自分の時間を持てやしない。
自由になるための勉強をする時間もない。
ひたすら与えられた目の前の仕事をこなし、まるで電池が切れたようにベッドに倒れ込む毎日。なまじ彼は責任感が強く生真面目すぎたため、目の前の仕事を途中で放り出すことなんてできず消耗するしかなかった。
彼が幸せになるためにやらなければならないことは、いったいなんだろうか?
いまの仕事を頑張り続けることだろうか?
もちろんそんなはずはない。
それは負けの決まったゲームを延々とやり続けるようなものだ。
その会社に所属している限り、万に一つも彼の理想とする生活がやってくる見込みはない。なぜなら彼の仕事は、どう頑張っても暇になることはないからだ。
会社の構造的にそうなっていて、こればっかりは彼の努力ではどうすることもできない。
なにせ間違って昇進してしまうと、さらに責任が重く、忙しくなってくのだから。
実際に40歳や50歳で、いまやそれなりのポストについている人たちも、まったくプライベートの時間が存在しないように見える。
つまり、もう確実に彼らはおじいちゃんになるまで「誰にも干渉されない穏やかな日々を送る」という、ささやかな夢すら叶う見込みがないということだ。
そんな彼が、彼の価値観に従って幸せになるためにできることは、その仕事を辞めて自分でビジネスをはじめるか、せめて残業がなく休みの多い会社に転職することだ。
それ以外、彼なりの幸せの実現に関与しないことに時間と労力を費やしてはいけない。
人生の浪費になってしまう。
もちろんときには我慢しなければいけない時期もあるだろうが、それはあなたがやりたいことのために必要なスキルがその会社でないと学べない場合か、我慢の先に明かな光が見えている場合の話だ。
目標達成に必要なことを見極めて、そのために貴重な時間とエネルギーを投じなくてはならない。
成功者の思考/価値観をインストールする
思考があなたの人生の方向性を決めてしまうことはすでに書いた。
思考・価値観があなたの選択・行動・判断の基準となっている。
これまでのあなたの思考を積み重ねた結果が、いまのあなたなのだ。
現状を変えていきたいと願ったとしても、思考・価値観が同じままなら、結局は同じ選択・行動・判断を繰り返してしまい、相変わらずあなたは同じ場所にとどまり続けることになる。
それではどうやって思考を変えればいいのか。
一番簡単で確実な方法は、あなたが理想とする人生を実際に手に入れている人たちの思考や価値観に積極的に触れて染まっていくことだ。そのための方法は二つある。
一つはそういう人たちと実際にコンタクトを取ること。
日常的に交流を持つことができれば最高だ。
最近はメディアを持つことが当たり前になってきているので、その気になればTwitterやメールなどで直接メッセージを送ることができる。もちろん常に返事が返ってくるとは限らないが、それでもあなたの熱意や誠意が伝われば、実際に会ったり、メッセージを交わしたりすることが可能になるかもしれない。あるいは交流会やオフ会のようなものに参加してみることでお近づきになれるチャンスもあるだろう。
成功者のコミュニティに入れば成功するといわれるが、それは成功者と付き合っているうちに思考や価値観が似通ってくるからだ。
それらが成功に好ましいものになりさえすれば、あなたは自然と成功する行動を取れるようになる。
もう一つは、成功してる人が書いた本を繰り返し読んだり、動画・音声・ブログなどを繰り返し見たり聴いたりすることだ。
一度だけではほとんど意味がない。数十年かけて染みついた思考や価値観は、たった一度音声を聞いたり、本を読み返したりした程度で変わるものではない。
本当に衝撃を受けた本はボロボロになるまで読んだようがいいし、音声ならほとんど暗唱できるくらいまで聴き込んだ方がいい。
無意識レベルで自分がお手本とする成功者の振る舞いができ、あなたの自由につながる選択や行動を取り続けられる状態になれば、いずれ自由は訪れる。
はじめは貯金より投資を優先する
日本人は絶望的に「投資をする」という感覚がない。
投資とは、将来利益をもたらしてくれるもののためにお金を投じることだ。
これは何も株やFXや不動産経営の話ばかりではない。将来デザイナーとして生活するために、パソコンや関連書籍やソフトウェアを購入する。
これも投資の一種だ。
それで他人が喜ぶデザインができるようになれば、そのスキルを使っていくらでも価値を生み出すことができる。
モデルやアスリートであれば、食事、サプリメント、器具、パーソナルトレーニングなど、健康や美貌、身体能力を維持するためにお金を費やす。その肉体を使い、彼らは投資した以上のお金を稼ぎだす。つまりこれも同様のことだ。
しかし、多くの平均的な日本人は、投資と聞いただけで拒絶反応を示し、リスクばかり過剰に意識して萎縮してしまう。これは戦後教育の洗脳に原因がある。
とにかく投資とギャンブルの区別がつかないのだ。
毎月1万円の利益を生み出してくれる資産を育てるよりも、今財布の中にある5万円を大事にしておくことの方が賢い選択だと思っている。
サラリーマン時代の僕のように貯金こそが美徳だという子どもの頃の教えを大人になってからも愚直に守り、せっせとアリが餌を巣に持ち帰るように銀行にお金を運び込む。そして通帳に並んだ数字を見ては、貯金が多いだの少ないだの一喜一憂してしまう。
もしあなたが本当に理想の人生を目指すのであれば、ただなんとなく貯金して、その数字だけみて漠然とした安心感を得ようという考え方は捨てたほうがいい。
それは常識的な生き方を目指す人たちの思考だ。
もちろんいざという時のために最低限は口座に残しておいた方がいいが、お金を銀行に預金したところでゼロ金利時代なので、利息による収入はほとんどない。
それどころか物価が上昇すれば、お金の価値は低下するので、資産がどんどん目減りしていく。貯金に回したお金は何も産まない死金になるのだ。究極のところ、口座のお金は通帳やパソコン画面に表示されるただの数字だ。財布の中のお金は原価数十円の肌触りの悪いただの紙切れに過ぎないのだ。みんながみんなして価値があると認めている存在に過ぎないのだ。
お金は何かと交換したときにやっと意味を持つ。貯金が勝手に人生を豊かにしてくれることもなければ、あなた自身の価値を高めてくれることもない。
多くの人たちが定年もしくは体が動かなくなるまで必死に働いてお金を稼ぎ、無駄遣いをしないよう節制に励み、多くの死金を銀行に残したまま寿命か病気で死ぬが、あなたがしなければならないことは、せっかくのお金を死蔵させることなく、それを活用して人生をより良く豊かなものにしていくことだ。
いうならばお金はそのための貴重な弾薬であり、燃料だ。
仮に口座に1,000万円も現金があれば、普通の人は「貯金がこれだけあるなら安心だよね♩」なんて考えそのままにしたり、浪費したりしてしまうだろう。
しかしあなたがこれから自分に主導権を持てる人生を歩んでいきたいなら、「何も価値を生んでいない死んだお金がこんなに残っているじゃないか!なんたる失態!!あるまじき事態!!!」と焦燥感を覚えるべきだ。
将来の自分を豊かにしてくれるものに投資していかない限り、一切の自由なんてあり得ない。
種をまかなければ作物が育たないのと同じで、時間と労働力を売る以外に道がなく永久に雇い主の下で働くほかなくなる。
ただし真っ先にあなたがしなければならないのは、自分への投資だ。
いうならば、将来の自分を救ってくれる知識・環境といったものを手に入れるのだ。
例えば僕は、成功者の書籍や教材、コンサルティングにお金を投じて、一時期徹底的に人生の土台となる「メンタルを整えるためのスキル」を身につけた。このスキルは一生使えるものだ。
これさえあれば僕はおそらく30年後、50年後も一切ブレることなく素の自分で暮らしていくことができるだろう。
それはたった数万円を投資して身につけた技術としては十分すぎるものだ。
もちろん将来不要になってくるスキルもあるし、あなたが目指したいもの次第で、どの分野に自己投資するかは慎重に決めるべき。
しかし少なくとも収入の10%は毎月投資に回す習慣を持った方がいい。
一刻も早く自由になりたいと思うなら、30%でも50%でも投資したらいい。
それだけ成果が出るスピードが速なってくる。
投資感覚は自分のお金を投資することによってのみ養われる。
最初のうちはうまくいかないかもしれないが、きちんと反省・検証していればいずれ必ずリターンが投資額を上回るようになる。
投資を避け続けている限り、投資感覚は身につかない。
成長の機会が損なわれるということは、永久に大きな労力を費やしても少ない成果しか得られない。
投資するのは怖いと感じるかもしれないが、そもそも一時的に数万~数十万円のお金を投資することはリスクではない。
この程度のお金を失うことは、長い目で人生を考えたとき、微々たるものだ。
いづれ、このまま何も現状を変えられず歳をとってしまうことのほうがはるかに大きなリスクだったと後になって気づくだろう。
実際のところ機会の損失はかなりのものだ。
頑張らなくていいように自分をアップデートしていく
日本では頑張っている人ほど褒めたたえられることが多い。学校ではまったく成果が出せなくても、どんなに非効率なことをやっていても、ただ頑張っているというその一点のみで周りからは評価される。
W杯ではどれだけ日本代表が無残な負け方をしても、メディアは彼らの努力する姿勢を感動的に演出しようとする。
もちろん努力する姿勢自体は肯定的に受け止めるべきだ。
僕だって人が努力している姿に感動させられることはある。
しかしそれが「とりあえず体力と精神力をたくさん費やしてさえいたらOK」「すべての人は額に汗を流して頑張るべき」というような思考を生み出してしまっていることは事実だ。
その延長線上にあるのが、「ガムシャラに頑張らないのは甘え」「根性で働かない奴は許せない」という視野の狭い考えだ。
あなたがこれからの時代を自分の力で生きていこうとするなら、少なくとも成功して自由になれるまでは努力に目を向けるのではなく、”自分がどれだけ変われたのか”という成果に目を向けなくてはいけない。とにかく自分の人生が好転していくことに意識を向けてほしい。
そもそも頑張っている状態というのは、心身ともに無理をしている状態だ。
一時的に頑張ることはできても、人間は20年も30年も頑張れるものではない。
必ずどこかで限界がきて、体を壊したり、心を病んでしまう。
無理している状態を当たり前にしてはいけないのだ。
もしあなたが無理していると感じるのであれば、それは理想の生き方としてふさわしい状態ではない。
仮にたとえ忙しくても、あなたが本当に納得して毎日心からエネルギーを注げることをやっているのであれば、それは無理して頑張っているとは言えないし、他方では充実しているとも捉えることができるのではないか?
あなたの資質から考えて、やはり興味の範囲は狭いが、こだわるものにはかなりのエネルギーを注ぐことが容易にできる。
だからこそ、無理する必要のない土俵に自分を持っていけるように今までの自分をアップデートしていく必要があるのだ。
必要なものだけをポケットにしまって生きていこう
僕はあなたに自由になってほしいと同時に幸せになってほしいと思っている。
というのも自由=幸せとは限らない。
叶えたい理想があり、果たしたい役割があり、必要としてくれる人がいて、守りたい人がいるから僕たちは日々生きがいを感じていられる。
そのために、必要なものと必要でないものを線引きする必要がある。
ありとあらゆる常識にがんじがらめにされている人は、自由からはほど遠い。しかし、何も望まない、何も抱えない人生はあまりに虚しい。
だからこそ、あなたにとっての幸せに本当になくてはならないものを引き留めておき、逆に重要でないものは容赦なく捨てていくのだ。ポケットにたくさんのものは入らない。
僕は適応障害で休職したときに、自分にとっての幸せとはいったいなんだろうと真剣に考えたことがある。
ただ、時間を気にせず自分の世界に没頭できる生活。そういうものが一番幸せだと思った。
また、ときおり費用を気にせずふらっと気ままに旅行したり、寝食を忘れるくらい読書に没頭している瞬間が何より楽しいと感じられた。だから本心から自分の生活の中心にお金を稼ぐための仕事ではなく、そういったものを据えたいと思った。
そのためにブレない自分で居続けるためにメンタルを整えた。
だから僕にとっての自由を手にすることができたのである。
そして、自分にとっていい影響を与えてくれる人が困っていたら全力でサポートするつもりだ。
なぜなら心許せる人は僕に必要なものだからだ。それらを切り捨ててしまったなら、僕は人生に彩りがなくなるだろう。彼らのためなら、僕の自由の一部が制限されることがあっても受け止める価値があると思っている。
逆に名声とは世間体とかは、僕の幸せにとってそれほど重要じゃない。
顔も知らない、興味もない、僕のことを1ミリも必要とも大切とも思ってない、赤の他人たちに認めてもらうことがどれほどのことか?
そういうものに囚われている人は不憫だ。
誰かにほめられることは気持ちの良いことかもしれないが、その一瞬の快楽のために貴重な自由を差し出すほどの価値があるのだろうか?
あなたのことを大事とも思ってない他人たちの評判を維持するために費やす時間・体力・精神力といったコストを見つめ直したとき、僕はそういうものは捨ててしまってかまわないと思う。
むしろ、それだけの時間・体力・精神力を本当に幸せを感じることに費やすほうがよっぽど人生の幸福度を上げていくことになるはずだ。
知人や親戚、会社の人間に後ろ指刺されるのが怖くて、何も行動できない人がいるが、それは自意識過剰なのではないか?
世間の人はあなたが思うほど、実のところあなたに関心がないのだ。
だから、あなたが理想を叶えるため行動をはじめたとき、みんな口を揃えて批判してきたり余計なお節介を焼いたり時に笑いのネタにするだろうが、ものの見事に全員数ヶ月後には覚えちゃいない。
その程度の恥を恐れるがために一生涯を他人に拘束されるハメになるのは実にもったいない話だ。
彼らはあなたの幸福にまったく無縁なのだから、彼らの評価など気にすることはない。
たとえ何か言われても、「木の葉がそよいでる」くらいに思っておけば問題ないのだ。
きっと、あなたにとっての幸せや生きがいは僕とは違うだろう。
まずは自分にとっての幸せとはどんなものか整理することだ。そして、あなたの幸せにつながるものとそうでないものを、常識にとらわれずにゼロベースで考えてみてほしい。
不要なものは捨てて身軽になろう。
安定とか就職、結婚とかも場合によってあなたがもし不要だと感じるのなら、一旦手放してもらってかまわない。
世間がそれを大事に思っているからといえ、あなたが後生大事にしなくてはならない理由はない。
代わりにどんなもののためなら自由を差し出す価値があるのだろうか?
それを自分で選択しよう。
決定権はあなたにある。
繰り返しになるが、ポケットに入るものはそんなに多くない。だから世間に合わせる余地など一片もないのだ。
おわりに
あなたが、手をつけるべきなのは思考だ。なぜならあなたの運命は突き詰めるとあなたの思考によって決まっている。
思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、
それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、
それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ
思考が根っこ、運命が果実、ということ。
誰かが恣意的に決めたに過ぎない常識に支配されているうちは、いくら物質的に時間的に満たされようがあなたの生きづらさは解消しないだろう。
そもそも常識とは、あなたの事情をまったく無視した他人の価値観のことだ。
絶対視する必要もなければ、鵜呑みにするほど他人の思惑に振り回される人生に終わるだろう。常識は時代や場所、コミュニティによって刻々と変化する。常識よりも自分の考えや信念に従う人生の方が、よっぽど満たされた日々になる。
特にただ働くことが尊いとする「労働信仰」を受け入れてしまうと、自由からは遠ざかるだろう。
いまの時代、世の中に価値を提供する方法はいくらでもあるのだから、まずはあなたが理想とする生き方から選ぶといい。
世界に目を向けたとき、日本人は働き過ぎの部類なのだ。
別に一日8時間週40時間もの労働が当たり前とされるのは、そろいもそろってみんながそうあるべきと思い込んでいるだけだ。少しでもおかしいと思うなら、常識など無視してあなたの好きなような働き方を求めれば良い。
もちろん常識から外れて生きていくことにはリスクが伴う。
しかし、今の時代はサラリーマンとして働くことにリスクがないとも言えない事態になってきている。計算上は定年までに日本人の二人に一人は少なくとも一回以上職を失っている現実がある。
大企業の社員や安定の代表格だった公務員ですら、精神を蝕む過酷な業務や歪な人間関係で潰されてしまいかねない。仮にも職場に適合できなくなればその組織で稼ぎ続けることが困難極まりないのだ。
すでに組織に頼ることなく、個人で生きていく人たちで溢れる社会になりはじめたのだから、無理して現行の働き方に固執することもない時代が来たのだろう。実に働き方は多様化している。
お金・時間・人間関係、そして場所にすら束縛されない人生を歩んでいくためには、次の点を意識する必要がある。
・自由を信じ、理想を目指し続ける
・理想の未来から逆算する
・成功者の思考/価値観をインストールする
・はじめは貯金より投資を優先する
・頑張らなくていいように自分をアップデートしていく
・必要なものだけポケットにしまって生きていこう
これからはあなたを苦しめてきた常識に惑わされることはない。
ほとんどの人は20代半ばにもなれば続々と人生をあきらめていくが、一度自由に生きていくためのメンタルを整えるスキルさえ手に入れてしまえば、好きなように人生をデザインしていけるようになるのだ。
僕の知る限りでは、趣味が転じていまや人気ボイストレーナーとして活躍する元うつ病のサラリーマン、コンプレックスから東大院中退年収3億になったナンパ師、美尻専門のパーソナルトレーナー、つけ麺屋のバイトからファッションコンサルタントだったりと・・・挙げはじめたらキリがない。とにかく自分の理想の追求やレベルアップに情熱を注いでいる人たちがたくさんいる。
楽しくてしょうがないみたいで、どんどんお客さんのニーズに応えるサービスが出てきている。
彼らに共通してるのは、心から毎日やりたいことをしている点だ。
それは自分で選んだ人生を生きているからだろう。
見た目も実年齢よりもずっと若い人が多い。
一方、不満や生きづらさを抱えるサラリーマンたちとたまに会うと、自由に過ごしている人たちとのあまりの表情や目の色の違いに衝撃を受けることが多い。
「毎日仕事を頑張らなければならない」「理不尽でも上司に従わなければならない」「苦手な同僚ともうまく付き合っていかなければならない」
それらは世の中があなたを替えがきく歯車にするために仕組んだ常識に過ぎない。
本来、あなたは毎年春休みと夏休みと秋休みと冬休みを取ろうが、朝寝て夜起きようが、夜寝て朝起きようが、どの瞬間もあなたの好きなルールで過ごせば良いはずなのに。
仮にあなたが100%自分に権利があるビジネスオーナーや資本家側の立場になるなら、そこにはあなたに命令する人は存在しないし、気が合わない人間とはもう二度と会わなくてすむのだ。
そうなれば価値観を共有できる仲間といったあなたにとってかけがえのない本当に大切にしたい人たちと一緒にいられる時間を充実させよう。
僕を含め、先ほどあげた自由な人たちは、もともと特別な資産も、スキルも、人脈もなかった一般人たちだ。ほんの数年前までただの学生だったり、平凡なサラリーマンで傷つき社会からドロップアウトしてしまった人だったりする。
彼らに共通していたのは、自分の「こだわり」を極められる分野で生きてくことにしただけ。
時間・労働力以外に自分の「こだわり」を形にしたサービスを市場に提供できる仕組みを持つ彼らは、お金のために働く必要がないのだ。
自由はもはや上流階級の人たちだけに与えられた特権ではない。
自由へのアクセスは常にあらゆる人に開かれている。
もちろん自由は決して楽に、頭を使わずに、片手間で手に入るものではない。
未経験のことに挑戦するということは、新たに学ばなければいけないこともあるし、常識で舗装されていない道を歩いていく孤独や不安、恐怖に苛まれることもあるだろう。
道中、雇われる生き方だけが絶対と信じてやまない人たちから非難されたり、心無い声を浴びせられることもあるだろう。
それでも、未来のあなたは挑戦しつづけることを願うはずだ。
最終的にあなたが自由を手に入れるために支払う代償は、一生を常識に縛られた毎日を過ごす後悔に比べると大したものではない。
僕は無責任に等身大のリスクが伴う自由を手放しで勧めるわけではない。
ただ、これまで周りと違う自分の存在に傷つきながらも不器用にしか生きられなかったあなたが、大事にしてきた自分の「こだわり」を武器にして自由になれる生き方を紹介したまでだ。
そのためにメンタルを整えることの重要性を解いてきたのだ。
“必要なのは、他人から与えられたフィクションを楽しむだけの人生を歩むのではなく、自分自身が主人公となって世の中を動かしていく『脚本を描くこと』”
出典:君に友だちはいらない
─────−- - - - - -−─────
僕は、
まるで自分の人生じゃないような 他人の価値観に合わせる毎日に 窮屈さを感じながら、
自分を変えていく勇気を持てずに 28年間も悶々とした気持ちで ただ人生が好転していくのを 待っているだけの人間でした。
このままの自分でいいんだろうか・・」
そう違和感を感じながらも、 建前だけで取り繕った就職活動を経て 安定だと思っていた職につくも
人をただ消耗品として扱う 現実を目の当たりにして ココロは完全に折れ、
気づいたころには、 適応障害になっていました。
そんな状況から立ち直れたのは、
”ブレないメンタルを身につけたから。”
今となっては、 失敗を過度に恐れたり むやみやたら他者と比べたり 不用意に自己否定することなく、
本来の自分と真正面から向き合って 自分のペースで一歩一歩着実に 幼い頃からの夢の実現に向けた 人生を歩めています。
十人いれば、十通りの人生がある。
” 自分は自分の道を進んだらいい”
この感覚を信念にできたことで、 僕は自分なりの幸せを追求する起業家に。
そこで、
興味のあることだけを仕事にし、 良好な人間関係で毎日を快適に過ごし、 努力に見合った報酬を手に入れるまでになりました。
どんな状況に陥っても、
”自分が納得できる生き方をしていれば 立ちはだかる壁なんて問題にすらならない”
とハッキリ断言できる自信。
この圧倒的な自信が、 精神的な余裕と豊かな感受性を 呼び起こし、日々の着実な成長を経て 僕の人生に真の安心をもたらしてくれました。
人は本当の自分と向き合うことで 自分がココロからワクワクできる どんな目標でも達成できると確信しています。
こういった経緯から、
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